悟りへ向かう四つの段階

悟りへと向かう道は大きく分けて四つの段階があります。第一段階は、普通大部分の人がそうであるように、自分自身の知っている心の世界に世の中を照らして見たとき、どうしてだろうか、と疑問を持つ人です。彼らは心を通して世の中を照らして見ようとします。

彼らは外部の対象に関心があり、だから新しい対象が現れれば、それはどうしてだろうかと疑問を持ち、外部の現象を観察します。それが既存の知っている世界に関連し契合すれば、それに関して「分かった」と考えます。こんな人々が尊敬する人は学者です。彼らは世の中の法則を人間の理性で分析し、還元しようとする作業を続けています。彼らの疑問符は外部に向かっています。

しかしそのような世界を極めたとき、その人はそのような方法では知に到達することができないということに気付きます。なぜなら世の中の法則というのは常に変化しており、しかも世の中の一つの部分である、人の理性もまた変化しているからです。

ここに到達した代表的な人がカントとアインシュタインでした。カントは『純粋理性批判』で「人間の理性とは、自ずから限界と相対性を包含しているために、この世界を人間の理性で定立することはできない」と述べました。この段階の終わりまで行った人が、二番目の段階に入ります。

第二段階の人は、対象の世界を把握し、定立することに関心があるのではなく、そのように「どうして」と疑問を持つ自分自身を振り返ってみる人です。彼は対象に従って作用する自分自身の作用の世界を見つめています。彼は分析し定義を与えることをするのではなく、何かを求めはじめます。

こうした人たちは求道者になるのです。彼は世の中の法則に対してああだこうだと判断を下し、自分はこう思うと発言する人々の間に交じって、そのように発言する人々の内面を見通せるようになります。彼は自分自身の内面を見通せるのと同じ深さだけ、他人の内面も見通せるようになります。彼らの疑問符は自分の内部に向かっていきます。このようになって初めて、自分自身を次第に遡っていくことを体得した人と言えます。

第三段階は、第二段階の終わりから始まります。遡る、すなわち振り返って見つめることを続けているうちに、見つめる状態そのものになることを経験します。その時その人は、このように知っているこれは「自分」ではなかったということをはっきり知るようになり、彼が抱き続けてきた疑問符が自然に消滅する現象を経験するに至ります。

たとえて言えば、水に浮かんでいる小さな木の葉が水の世界を知った瞬間、木の葉の世界を抜け出すようなものです。しかし木の葉自身はまだ持ち続けています。その中に「自分」に固執するエゴはないけれども、まだ習慣的に持ち続けてきた習気は相変わらず残っています。彼はこの木の葉が「自分」ではないということを注視しながら、相変わらずその流れに従っています。この段階に到達している人は、そのカルマの影響圏から離れます。仏教ではこの段階を見性と言います。

第四段階は、三番目の見性すなわち悟りが完成される段階です。水に浮かぶ木の葉は自分ではないということを完全に体得し、その習気の世界までも完全に消し去ったとき、彼は木の葉の影響から完全に自由になります。彼は水に浮かぶ自分と水の流れを同時に見るようになります。

この四番目の段階を仏教では漏尽通(ろじんつう)を得た、あるいは究竟覚(くきょうかく)を得たと言います。ヨガではしばしば、サハスラル・チャクラを通してクンダリーニが開いたとも言います。これは大変稀な現象なので、経典で詳しい記録を見つけるのは容易ではありません。したがって一般的には第三段階、悟りの段階までは理解するのがそれほど困難ではありませんが、この四番目の段階を理解するためには見性の後もある程度の段階を経なければなりません。

第四段階に至って初めて、彼は光の役割を果たしはじめます。彼は生命エネルギーそのものになります。生命エネルギーとは、まさに愛なのです。イエスの胸にハート型に描かれているそんな愛なのです。


「悟りの瞬間」素空慈著 塩田今日子訳 地湧社

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エゴから自由になる

この世のすべての現象的なもの―皆さんの考えることもまたそうですが―それは常に変化しています。そこには永遠など存在しません。現象的な物の中には永遠は存在しないのです。あえて永遠を探すならば、変化こそが永遠だと言えます。

つまり、すべての現象的なものは永遠に変化し、永遠に変化しない物は現象界の中にはないという意味です。永遠に変化するしかない現象界法則を指して、インドの人たちは輪廻と言いました。皆さんが感じている「自分」も現象界の一部なので、変化しています。皆さんも今、一刻一刻、変化しているのです。

人々は自ら変化しつつあるにもかかわらず、ある瞬間に幸福が訪れるとなんとかそこにとどまろうとします。変化する世界の中で、会っては別れることを繰り返しているのが現象界の原理なのに、皆さんはその出会いと別れ、創造と破壊のなかで、やるせなく切ない心をいつも持ち続けて生きています。その理由は、皆さんが「選択」をするからです。好きなものが来れば掴もうとし、いやなものが来れば避けようとするからです。

・・・中略・・・

皆さんのその心、その痛みを私も全く同じように経験してここまで来たのです。皆さんが辛いとき、隅にうずくまっている姿を見るとき、外に現れたその姿よりももっと大きい何かを私はアナハタ(anahata=チャクラ)で感じています。私は、本当は皆さんのその痛みを暖かく包んで慰めてあげたいのです。

しかし私は、むしろ怒って怒鳴ります。皆さんを慰めたりすれば、その水溜まりに座り込んでしまうからです。その世界の中でまたしても夢を見、その夢がある瞬間に組織的に適合してしまうと、皆さんは自分だけの世界をまた一つ作り出してしまうのです。あたかも一九世紀末の詩人のように、孤独で陰鬱に座り込んだままその陰鬱さを主張しはじめます。そんな孤独を楽しむようになります。

私は怒鳴って止めなければなりません。皆さんが座り込んで悩んでいるとき、私は言います。起て!不和は自ら防がなければならない。自ら防げずに他の力を借りてストレスを解消すれば、それだけ力がそげる。自らが自らを克服しつつ力を養わなければならない。

これをもっと積極的に表現すれば、「自分自身だけのための行為をするな」となります。すなわち、自分のエゴが引っ張ろうとする引力から自由になれということです。

さらに付け加えれば、「自ら自分自身をだますな」この言葉は自分のエゴを弁明するなという意味です。


「悟りの瞬間」素空慈著 塩田今日子訳 地湧社

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囚われた心に気づくこと

憂いも愛する術を知らなければなりません。幼な子をなだめるように、自ら憂いをなだめることのできる力を得なければなりません。その時はじめて憂いから抜け出すことができるのです。

皆さんの中にも経験した人がいるでしょう。皆さんが大学を出て社会に出る頃になると、浪人生たちが大学を何度も落ちて悩み、苦しんでいるのを見ることがあるでしょう。それは大変気の毒でもあり、見ようによっては全く取るに足らないことのようでもあります。しかし浪人生にとっては、その悩みは本当に切実です。

路地裏で一人の子供がエンエンと泣いています。その子はめんこをしていて、隣の子にめんこを全部取られてしまいました。その子はとても悔しい思いをしています。その悔しさは本当に切実です。

「ほら、そんなめんこなんか、百円もあれば買えるじゃないか。二百円あげるから、めんこを買って残ったお金で飴玉でも買って食べな・・・」

しかしその子の思いはそんなことでは満たされません。子供は二百円を投げ捨ててしまいます。そして部屋に入って布団を被って寝てしまいます。めんこを取られた悔しさ。そのために子供はそれほどまでに憤慨し、心を痛めるのです。

大事なことは何でしょうか。何枚かのめんこではなく、百円や二百円では解決されない何物か、その心、めんこに囚われている心が蒸発すること、自ら愚かであったことに気付くことなのです。めんこと悟りとは関係がありません。囚われている心と、その心に気付くこと、その間に悟りがあります。

このような小さな悟りを通して皆さんの精神は成長していくのです。対象に囚われて埋没してしまう心を自ら征服すること、自らそれに打ち勝てること、自ら不完全な世界を覚ること、それは永遠に満たされないということを知り、その世界から離れること、そうして完全を得ることです。不完全な世界の死こそが、完全な世界の始まりです。さなぎの死が蝶の始まりであるように。


「悟りの瞬間」素空慈著 塩田今日子訳 地湧社

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地面によって転んだものは・・・

《僧伽難提と迦倻舎多》
ある日、僧伽難提はある寺の傍を歩いていた。その時、風が吹いて風鈴の音がした。僧伽難提は一人の僧侶に聞いた。「おい、この音は風によって出るのか、風鈴によって出るのか」
その僧侶の名前は迦倻舎多(カヤシャタ)であった。「風でもなく、風鈴でもありません。ただ私の心が鳴っているだけです」
「ならば鳴っているお前の心は何か」 「すべてが静かだからです」

僧伽難提にもたくさんの弟子がいましたが、釈迦から伝わってきた衣鉢を伝授するだけの器はなかなか現れませんでした。僧伽難提はすでに老年、自分の涅槃の日が近づいていることを知っていました。

風鈴の音がかすかに聞こえてきて、遠くに迦倻舎多が静かにその音に耳を傾けている姿が老僧の目に映りました。「おい、この音は風によって出る音なのか、でなければ風鈴によって出る音なのか」

本当に謎々のような問題です。このような種類の質問は、判断する者をひっかける罠のようなものです。風のせいか、はたまた風鈴のせいか。

思考の世界にいる人にとっては、このような質問は一つの解けない落とし穴になります。これだろうか、あれだろうか。どれが正解だろうか。このように頭でもって旅をする人にとっては、最後まで解けない謎のようなものです。

しかし、迦倻舎多はその罠にかかりませんでした。その問いに対し、いかなる判断にも偏りませんでした。彼は存在自体をそのまま見ていました。

風でもなく、風鈴でもありません。ただ私の心が鳴っているだけです。

僧伽難提は心の中に広がる喜びを感じることができました。
人々は争います。しかし風鈴は争いません。音を出すのが風鈴であれ風であれ、風鈴と風とは互いに争いはしません。風は通りすぎながら文句を言ったりしないし、風鈴はそれを咎めたりしません。

二つは互いに合わさって音を出すだけです。人々だけが意見を出して互いに争います。人だけが形容詞を付けます。あの音は本当にきれいだ。風鈴の音だけがして物悲しいな。あの音に我が心を乗せてあなたに送ろう・・・。


「悟りの瞬間」素空慈著 塩田今日子訳 地湧社
タグ: 悟り 釈迦
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悟りは苦行にあらず

慧可がある日、弟子たちを集めて言いました。

「祖師の深意は苦行にあるのではなく、道を助けることにあるのみである。もしも本心に契合し意のままにする真の光明を得たならば、苦行は土を固めて金を作るようなものであるが、苦行のみに努めて愛と憎悪に束縛されるようになれば苦行は晦日の真っ暗な晩に険しい道を行くようなものである」と。

十何年もの間結跏趺坐して座ったり、何年もの間寝ないで暮らすこと、それは悟りとは関係がありません。体があるからには寝て食べなければなりません。それは当たり前のことです。ただそこに埋没するなというのです。

釈迦も言いました。「貧トン、瞋ジン、痴チ(三種の煩悩)に落ちるな」と。この言葉はいかなる観念も利益も、さらには悟りまでも貧るなという意味です。苦行すれば悟りに埋没するからです。

そんな人々は他の求道者にも苦行を勧めます。彼に弟子があれば、弟子にも苦行を強要することでしょう。必ずそうなります。ですからそんな人の元にいる人は、次のように質問すればこう答えるでしょう。

「あなたの師匠は見性したそうですが、ならばあなたとあなたの師匠ではどこが違うのですか」
「はい、私の師匠はときどき説法をなさるのですが、我々には全くわけの分からないことをおっしゃいます。それこそが先生が見性なさったという証拠ではないのですか」

さあ、もっと深く考えてみることにしましょう。「祖師の深意は苦行にあるのではなく、道を求めるその心を助けてやろうとするだけである。自分自身の、沸き起こる心のみを追って苦行して求めるというのは詮ないことであり、自身をよく観察して本来の心を明らかにし、本当の光明を得るなら、まさにその時、そのような修行は土から忽ち金と化す。苦行だけのために耐え、努めるならば、真っ暗な夜に険しい道を行くがごとき愚かなことに他ならぬ」

皆さんも皆さんの綱と鎖から抜け出て、その綱の世界に何の拘わりもなく充足を享受して生きる本当の光明を得るようにしなさい。それこそが永遠の命であり、神の栄光であり、解脱であり、真実であります。

それを得たならば、もはや人生に彷徨うこともなく、自身が確固たる生き方をし、人間として生まれてまさに神の領域を得ることができるでしょう。それだけが人生を本当に真に享受することだということを皆さんがはっきり納得し、獲得してまさにそのような状態になること、それこそが「悟り」、すなわち「真の生」なのです。


「悟りの瞬間」素空慈著 塩田今日子訳 地湧社

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悟りと空

皆さんは感情を抱きます。考えることもします。考えと感情、それらもまた人間には当然存在します。ところが、そのように当然あるべきものだと思ってしまうところに問題があるのです。歴史上のすべての聖者たちは、まさにそのことを教えようとしています。彼らは人間の思想と感情について語ったことがありません。

(手を叩く)「パン!」

明らかに手を叩く音がしました。皆さん方は、まちがいなくその音があると認めましたね。
「ある人が僕を罵りました。僕はひどく自尊心を傷つけられて、大変気分を害しました。僕もおもいきり罵ってやりたかったのですが、そうなると他の人に僕も同じように見られそうだったので、笑って済ませてしましました」

しかしこのような人の中には病気が巣食ってしまいます。一度起きた欲求は抑圧によって一旦は「中」に取り込まれますが、いつか必ず吹き出してきます。それは「中」でストレスや破壊的な行動、あるいは疾病に変わります。一度起きた欲求は必ずそれを解消しようとして、大変巧妙な方法で吹き出してきます。

そうだとすれば、どうしたらいいのですか。ある人が僕を罵ったので本当にいやな思いをしたのですが、それは間違いだったことでしょうか。こうして手を叩くと出る「パン」という音は偽物だとおっしゃるのですか。

もちろん本物です。あなたの場合、それは本物です。なぜかというと、あなたの中に「自分」があるからです。

私が言わんとすることは、過ぎていく手のひらとは関係がありません。手のひらはいつも通り過ぎていきます。過ぎていく手のひらとぶつかるあなたの手のひらを取りのけてしまいなさい。あなたの中にある「自分」というものが、その手のひらです。ぶつかるもうひとつの手のひらです。

あなたを「空」にするとき、あなたの手のひらを取り去ったとき、過ぎて行く手のひらは音を出したりはしません。「馬鹿たれ」が来ても「糞ったれ」が来ても、色々な「たれ」が一緒くたに来ても(笑い)、あなたは波だったりはしません。あなたからはむしろ愛が流れ出ます。ですからイエスが言ったように、仇は自動的に、自然に愛するようになっているのです。

「仇を愛せ!」と言ったところで、愛せるものではありません。仇すら愛せるようになるためには、いくつかの深い洞察を成し遂げなければなりません。その時、いつのまにか仇に愛を以て対している自分の姿に自ら気付くのです。


「悟りの瞬間」素空慈著 塩田今日子訳 地湧社刊




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悟りの修行方法

大部分の宗教には修行の方法があります。たとえば、禅、ヨガ、数々の瞑想の方法や祈祷の方法などです。これらの方法について、肯定したり否定的な立場を取るのではなく、よく考え、観察してみなくてはなりません。

これらの方法は大きく二つに分けられます。一つは想念を集中し、燃やしてしまう方法であり、もう一つは想念を放心状態の中に流してしまう方法です。そうして想念の間隙に潜んでいる何かを会得しようとするものです。もちろん二つとも必要です。

しかしこれらの方法はそれなりに大きな問題をはらんでいます。方法だけが目的になり、修行方法に執着してそれらに縛られてしまうと、想念の間隙を見つけるためではなく、何かを会得しようとする方法にエネルギーが使われるようになります。そうなるとかえって、正反対の現象、エゴが消滅するのではなく、エゴが強化される現象が現れます。

ともあれ、修行方法は一つに帰するということができます。それは見つめることです。自ら内面に起こる変化を、まず一生懸命見つめなければなりません。一生懸命見つめていると、見つめていること自体までも無くなってしまいます。意識しなくなってしまいます。見つめている自分すら無い、そこになおかつ存在するものがあります。それは人間的な「自分」ではなく、神的な存在、プルシャ(purusa=神我)がくっきりと現れるのです。

今そこでしきりに頷いていますが、それは見つめることではありません。「あー、それが見つめるということだな」と理解することは、見つめることではありません。理解している自分自身をはっきり注視する何かが同時になければなりません。初めは、その注視者をすぐ逃してしまいます。寝ているときのように寝込んでしまいます。しかしそれがはっきりしてくると、寝ているときもその注視者は醒めているようになります。

「目を醒ましていなさい!」 イエスがゲッセマネ(Gethsemane)で祈祷したとき、弟子たちに命令したのはこのことです。目を醒ましていなさい、あの言葉はこういう意味なのです。


「悟りの瞬間」素空慈著 塩田今日子訳 地湧社刊

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汝の信仰が汝を救えり

たとえば皆さんは病気にかかりますね。どこかが痛いとか病気になったとしたら、その病はどうして生じたのでしょう? それは皆さんがその病気にかかり得る要素を自ら持っているからです。神は一点の隙もなく正確です。完全だから神なのです。皆さんが望まないこと、要求しないことは決して与えたりはしません。

皆さんは聞くことでしょう。「でもどうして僕は病気になったのですか。僕は病気になることを望んだりはしなかったのに・・・」皆さんは病を心の中に持っているのです。それが病気となって皆さんに正確に現れたにすぎないのです。

皆さんは小さいときから病気についての意識を、直接的にせよ、間接的にせよ、経験しながら育ってきたはずです。癌についても聞いたはずです。隣の誰々さんが癌で死んだとか、新聞や色々なマスコミにも癌についての問題がいっぱい載っています。

そうして皆さんの無意識のなかに、癌に対する恐怖心が少しずつ侵入し始めます。無意識は何度も「癌」という恐ろしい敵を記憶するに至ります。そうなると皆さんの持っている生命エネルギー、神から付与されたそのエネルギーは、癌に向かって流れるようになります。

そのエネルギーは、何であれ皆さんの潜在意識が強烈に記憶している部分に向かって流れますので、もし癌にでもなったらどうしよう、というその「どうしよう」に囚われていると、その「どうしよう」に向かってエネルギーがザーッと流れ込むようになります。

衝撃的な話かも知れませんが、病気になった大多数の人は、病気になることで楽になるので、長い間病んでいるのです。彼らの無意識は、自ら存在するための正当性を病気によって維持しているのです。もしも皆さんが心底病気から救われたいと願うならば、自ら病魔から逃れるために闘わなければなりません。ゆえにイエスは、「汝の信仰が汝を救えり」と言ったのです。



「悟りの瞬間」素空慈著 塩田今日子訳 地湧社刊


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「悟り」旅が始まる以前の世界・・・

人は絶えず旅立っており、また、あとにしたその場所に休むことなく還りつつあります。人は還らなければなりません。自分から出発したその旅行の行く先は、結局は必ず自分自身に還らなければなりません。旅行が始まる以前の世界に・・・・・。

煙草を吸うと煙が漂います。煙を吐き出せば、虚空に紛れて無くなってしまいます。煙草の吸い殻もいつかは腐って無くなってしまいます。皆さんの体も腐ってバラバラになって無くなってしまいます。すべてのものは散々になって無くなってしまいます。

皆さんの心の中に浮かぶ「心」というものも同様です。高ぶった感情も、しばらくすればまた静まります。皆さんの固定観念、自尊心、判断基準のようなものも同様です。それもやはり色々な原因によって集まってできたものであり、そうであるがゆえに、それはいつかは必ず虚空のなかに散っていかなければなりません。静まり、還って行く世界、そここそが我々が行かなければならない場所なのです。

皆さんが知っている知識の世界も、やはり根本へと深く降りてゆかなければなりません。その根本とは、皆さんの頭脳ではありません。皆さんが見つめ、判断するその目ではありません。それは外に向かうものではなく、皆さん自身に向かい、皆さん自身の内面に向かってあるものです。まさにそのように還らなければなりません。いつの日か皆さんも知るときが来るでしょう。あとにしてきた故郷こそが、皆さん自身であったということを。



「悟りの瞬間」素空慈著 塩田今日子訳 地湧社刊





タグ:悟り 哲学
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アートマンとブラフマン

皆さん方が日頃感じている苦しみ、悩み、迷い、幸福感などといったものは、すべて影の世界から生み出されたものです。「悟り」というのは、そのような虚像に囚われている自分自身から抜け出し、自分の本体を体得する道なのです。

池に石を投げ入れると水しぶきが上がります。人は、跳ね上がる水しぶきを自分という存在だと思っています。しかし、真の「自分」は、跳ね上がる水しぶきではなく、水自体なのです。

インド人たちは、こられを厳密に区別して、水しぶきが上がるのをアハムカラ(ahamkara=自己観念)と言い、池の水をアートマン(atman=純粋自我)と名付けました。

これは人間だけに当てはまることではありません。すべてのものにそういうものが存在します。動物や植物にもそれは存在します。我々の心の底にアートマンがあるように、あの木蓮の木にも、生命それ自体であるアートマンがあります。

インド人たちは、さらにそれを名付けてブラフマン(brahman=宇宙自体の本質)と呼びました。ブラフマンとアートマンは全く同じものです。我々が悟りを得るということは、すなわちアートマンを体得することです。アートマンとブラフマンは決して違うものではないということを体得することなのです。



「悟りの瞬間」素空慈著 塩田今日子訳 地湧社刊




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禅の神秘『伝灯録』

Q.先生が大衆に教えるための最初のテキストとして『伝灯録』をお選びになった理由と、その必要性についてお話ください。

歴史上に存在する教典、たとえばインドのヴェーダ、ウパニシャッド、老子の道徳経、バガヴァッドギーター、仏教の経典、聖書、孔子の易経など・・・。これらは悟りの状態を説明したり、悟りの状態に入ってその世界から流れ出てくるメッセージを記録したり、悟りをもってこの世を治めることについて説明したりしたものです。

このように、すべての教典は悟りの状態やその結果を記述したものですが、『伝灯録』は、一人の人間が、彼の師の前で今まさに悟ろうとする、状態の変化の決定的瞬間を記録した大変重要な経典です。

変化が起ころうとしているその頂点の状態をトンと突いてやることによって、卵が鶏になり、さなぎが蝶になり、おたまじゃくしが蛙になるように・・・、一方は完全に死に、もう一方は変化して現れるその決定的なポイント・・・、その頂点を教えたのが『伝灯録』の内容であります。これこそが禅門における最も正統な脈なのです。

人が普通、禅と思っているような―結跏趺坐して座禅するような―ものだけが禅なのではありません。本当の禅とは、その頂点において師と弟子とが互いに秘かに伝え合い、一つの世界に入っていくことであり、殻を突いて闇から光へ転換する、その間を教えることこそが禅なのです。

そのような光を、師匠から弟子へと伝えてきた技術こそが禅なのであり、その技術から生まれた言語、身振り、技巧といったものを纏めて伝えているのがこの『伝灯録』なのです。


「悟りの瞬間」素空慈著 塩田今日子訳 地湧社刊



タグ: 仏教 悟り
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悟りに向かう人

人は誰でもいつかは悟りへと向かわなければならないのであり、また、自分自身は気付かなくとも、結局は皆そちらに向かう途中にあるのです。

しかしながら悟りに関心を持ったり、その道を求めたりするのはごく一部の人で、多くの人は悟りについて全く関心がありません。

少なくとも悟りを求める人は、人生の何らかの過程―虚無という過程―を精神的に乗り越えてきた人たちです。

彼らは究極的な本質の世界や、人の生死の問題について疑問を持ち始めます。そして、結局は悟りの方へ向かわなければならないということを自らが自覚するに至ります。

次のような例えで説明しましょう。

すべての人は大きく分けて、花の状態にある人、実の状態にある人、そして実から種のほうに向かう人に分けられます。

花の状態にある人は、自分のやり方で自己完成を目標に進む人です。彼らは自分自身を花咲かせることだけに関心があります。しかし花はいつの日にかは枯れて落ちなければなりません。

そうやって落ちていくことを経験した人、そのような人は実に向かう人です。我々は彼らを求道者と呼ぶことができます。そのような意味において、悟りについて内面的に関心が深く、またその道を求める人を、上根機(仏の教えを受け入れる性質のすぐれた者)だと言うことができます。


「悟りの瞬間」素空慈著 塩田今日子訳 地湧社刊
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悟りの世界

今、私たちは、霊魂の新しい時代を迎えようとしています。今や私たちは、我々の苦痛や不幸が我々の内面にある牢獄によって引き起こされているということを徐々に自覚する重要な時期にさしかかっています。

今や私たちは自分から抜け出して、宇宙それ自体の世界に入ろうとする過程にあります。私が広めている教えは、その道を皆さんに提示し、皆さんがその道を歩いていけるように助けるためのものなのです。

昔から、この道を我がものとしたたくさんの聖者たちがおりました。彼らはいつの時代にもいたのです。時には尊敬され、あるいは迫害を受けつつも、彼らはその道を多くの人たちに知らせようとしました。それを釈迦は「悟り」、イエスは「天国」、またある人は「神の世界」と呼んだのです。

しかし周囲の人々は、それが何のことか分かりませんでした。それをまたしても、自分の窓枠の世界に置き換えてしまったのです。

たとえばそれが悟りだと聞いた人たちは、「悟らなくてはならない」と信じており、また、天国だと信じている人たちは、そのように信じている信仰がすなわち天国だと思っています。人々は神の世界に入れないまま、天国と悟りの世界を分別し、また自分なりに評価しています。

もし皆さんが神の世界はそんなものではないと信じているならば、皆さんは今こそもう一度、深く考えてみる必要があります。

「私が信じているのは本当の神の世界ではなく、私が知っている、私の神の世界ではないか」と・・・。


「悟りの瞬間」素空慈著 塩田今日子訳 地湧社刊

タグ:禅 悟り
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