寂莫に止まる者


「寂莫に止まる者に智慧がありますか?」
静寂を好み、静寂に埋没している者も
智慧を得ることができますか?

「寂莫におぼれて忘却したような者は智慧が沈滞し・・・」

悟りとは、常にはっきりと覚めていることです。
その覚醒は眠りの最中ですらもはっきりと覚めています。
悟れば木石のようになるのではありません。
悟れば馬鹿になるのではありません。
悟った者は左右上下を一目で見ます。
寂莫は悟りとは違います。

普通の人は自分が経験してきた方、片方にだけ向かいます。
弓でねらいをつけるときには、ねらっている方しか見ません。
そのような人は全体を見ることができません。

昔、荘子が経験したのはまさにそれでした。
荘子が弓でねらいをつけたのに、鳥は逃げようとはしませんでした。
その鳥も蝉をとろうとして、自分の的の方にすっかり
気をとられていたからです。

そのように気をとられているうちは、利口ではありません。
もし皆さんが禅定にはいれば、的にばかり気をとられる人生は
卒業することになるでしょう。
皆さんは鳥を捕らえることもでき、
鳥も蝉も捕らえないでいることもできるのです。

寂莫におぼれて忘却したような者は、
自ら馬鹿になった者です。
寂莫を求めるのは仏陀になる道ではなく、馬鹿になる道です。


「悟りの瞬間」素空慈著 塩田今日子訳 地湧社




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イエスの悟り


悔い改めることは大切です。
悔い改めるということは、カルマを燃やしてしまえ
ということなのです。
それは「霊的に新しい人間に生まれ変わる」ことを言うのです。
イエスが言ったのはそういう意味なのです。

悔い改める者は過ぎた事に囚われはしません。
過去から積み上げてきた自分のエゴを再認識するのです。
切実に認識するのです。

よって涙で悔い改める者は、
自分のエゴをそれだけ脱ぎ捨てることができます。
自分の過去の垢を、たまねぎの皮をむくように
一枚一枚はがすことができるのです。

イエスの教えた唯一の修行の方法は、
この「悔い改め」でした。
皆さんは本当の「悔い改め」を通して
新しく生まれ変わることでしょう。

本当の悔い改めは、過去のカルマを燃やしつくして
しまうことでしょう。
皆さんは新しく生まれ変わるでしょう。
そうして「風はそれがどこから吹いて来て、
またどこに吹いて行くのか知ることができないように・・・」
(ヨハネの福音書三章八節)

皆さんは無為の道を経験することでしょう。
皆さんは悟りを開くことができることでしょう。


多くの人がキリスト教には悟りがないものと信じています。
キリスト教徒ばかりでなく、仏教徒も大部分そう思っています。
しかしそれは間違いです。悟りのない宗教はにせの宗教です。
それこそ迷信であり、偶像であります。
イエスは悟りを教えて歩いたのです。

ある神学校の学生が私のところに来て言いました。
「キリスト教は悟りを追求する宗教ではありません。
信じて救いを求める救いの宗教であって、仏教のような
悟りを開く宗教ではありません」

私は聖書を開いて見せながら言いました。
「そうではない。ただ使われている用語が異なるだけである。
ここを見よ。『お前たち自らが罪を免れる権能を持っていることを
知らせるために私が来たのである』これがすなわちイエスが
表現した悟りの教えである」と。


出典:「悟りの瞬間」素空慈著 塩田今日子訳 地湧社


SHOGONGJA CHOKEN CENTER





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以心伝心


以心伝心という話は有名です。
昔、釈迦が蓮の花を一輪手にとって見せたとき、
迦葉だけがにっこり笑いました。

他の者たちが、「あれは何の意味だろう?」と
そこに意味づけすることだけを考えていたとき、
迦葉はすでに意味を超越して釈迦の意とするところに
到達していたのでした。

迦葉はすべての泥の世界、そのすべての苦痛の世界を
踏み越えて立ち上がりました。彼はにっこり笑いました。

その混沌として苦痛に満ちたカオスを、私はすでに
通り過ぎてきました。もうカオスには翻弄されはしません。
蓮の花に泥水がつかないように、私はもう阿修羅(観念)の
世界に染まりはしません。

釈迦と迦葉は目に見えないラティハンを微笑で
とりかわしていたのでした。それを以心伝心と言います。

他の人たちはまだ泥水の世界を抜け出すことができないでいたので、
一緒に笑うことができませんでした。その笑いに加わることが
できなかったのでした。


「悟りの瞬間」素空慈著 塩田今日子訳 地湧社


SHOGONGJA CHOKEN CENTER




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仏陀とは


皆さんは私に仏について質問します。
そして皆さんの描く仏と比べようとします。
仏について聞く必要はありません。それより
あなた自身について聞くようになさい。

皆さんは仏についてよく知っているはずです。
そして皆さんが知っている仏様が仏様だと信じているはずです。
仏はBuddhaを漢字で表したもの―仏陀―です。
では、仏陀とは何か。

仏陀はアフォリアの世界を飛び越えた人を言います。
アフォリアを超えて神の世界に入った者、
そうして神性を得た人をインドでは仏陀と言います。

皆さんは、仏様を知ることはできません。
皆さんの知っている仏様は仏様ではありません。
仏陀の世界を知らない皆さんの心の中に描いた仏様の顔は、
本当の仏様ではありません。

「悟りの瞬間」素空慈著 塩田今日子訳 地湧社


SHOGONGJA CHOKEN CENTER




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菩提がどうして育とうか

今日は、自分の鏡の世界から抜け出して悟りの世界に入った昔の禅師たちの話です。昔、自分なりに得たところがあると自負していた臥輪という僧侶がおりました。彼は、自分が知ったと思う世界について偈を詠みました。

臥輪は技量に長け、百千の思いを一息に断ち切り、
境界に対しても心を動かすことがないゆえに、菩提が日に日に育つ。


臥輪は修行の途中で自ら何かの力を感じました。彼は筆をとり、自分の状態を詩に書いて降りて行きました。彼は自信に満ちており、自分の詩に満ち足りたものを感じていました。

臥輪、すなわち自分は多才多能であり、百千の煩悩が押し寄せてもひと息に断ち切ってしまう。良いことや悪いことに直面しても心が揺らぐことがないから、悟りの世界が私の中ですくすくと育つのだな。

《臥輪と慧能》
この偈を聞いた六祖慧能は舌打ちして、「こいつはまだ悟りが開けていないな。こんな偈を信じて人々が修行を重ねればますます縛られるだけだ。修行している自分自身の中に埋没してしまうだけだ。わしの偈を聞くがよい」

慧能は技量がなく、百千の思いが断えることがなく、
境界に対してもたびたび心を動かすゆえに、菩提がどうして育とうか。


皆さん、この二つはどこが違うのでしょうか。何か痛快な違いが感じられませんか。菩提がどうして育とうか・・・・・。悟りの世界は決して増えたり減ったりすることがありません。永遠の生命の世界には年齢がありません。伸びたり縮んだりするのはゴムひもの世界であって、永遠の生命の世界ではないのです。

臥輪は一生懸命坐禅をしました。百の欲望が湧き起こってくるたびに、違う、違うと断ち切ってしましました。境界に対しても心も動かしませんでした。彼はすべての扉を閉めてしまいました。それで臥輪は一生懸命坐禅をするという噂がたちました。修行熱心な臥輪は多くの賞賛を受けました。しかし臥輪は皆勤賞を受けるに値する模範生ではあったかもしれないが、決してその学校を卒業することができなかったのです。


「悟りの瞬間」素空慈著 塩田今日子訳 地湧社


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神の世界「素空慈」

私はつくづく考えました。これをどのように伝えたらいいのだろうか。これが神の世界だということが彼らには分からないに違いない。どうしたらよいのか。彼らにまた新たな闘争と流血の種をまくよりは、むしろ深い山にはいって隠遁生活でもしたほうがいいのか、重たい体を捨てて涅槃にはいったほうがいいのではないか。

そうしているうち、ふと新しい考えが湧き上がってくるのを感じました。そうだ、あれとこれとが異なるものだと主張して、互いに争っている人々に、そのことを知らせてやらなければならない。神の世界において、このすべての世の中はたった一つであることを知らせてやらなければならない。それこそが、この世に真の平和をもたらすことのできる道である。

それで私は、そのたった一つの世界に新しい名前をつけました。

『素・空・慈』

この世の森羅万象はそれぞれ異なる色と形態をもっており、現れる性質もまたおのおの異なる。そのように現象として現れるすべてのものを次々と分割していくと、これ以上割ることのできない素粒子の世界、一つの根本的な世界に到達する。その元素の世界、本質の世界を「素」と言う。

そしてその本質の世界は人間のアフォリアの世界においては形をもって見ることができないものであるゆえに、あたかも虚空のようなものである。ただ生命のエネルギーだけが光のように流れ出て来るにすぎない。それを「空」という。

その本質の世界は自ら惜しみなく与え、森羅万象の作用と現象を引き起こす力を持っている。磁石に+極と−極があるように、本質自体にも同様な性質があり、互いに押しあい引きあいしながら森羅万象が展開するのである。それを「慈」という。

素・空・慈――全く同じ意味を持つ三つの文字を一つに集め、再び一つの名を作りました。よって1983年1月15日、神の世界は素空慈という新たな名で呼ばれるようになり、私の名もいつのまにか素空慈になったのです。

今や、天の意志はこの地に達成されました。天の名もつけられ、本質の世界に還る道もまたついに開かれたのです。今、時代は新しい春を迎えようとしています。アフォリアの冬は過ぎ、悟りの風が吹いて万物が咲きほころぶ春がきたのです。


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アフォリアを超えた悟り

人間の世界を超えたところに、神の世界があります。人間のアフォリアから抜け出して神の領域に足を踏み入れたとたん、彼は独特な体験をすることになります。それは、それまで経験したことのない、全く新しい体験であります。仏陀はそれを悟り(enlightment)と言い、クリシュナは光(luminous)と言い、エックハルトはエクスタシー(ecstasy)と言い、インドの瞑想家たちはそれをマハムードラ(mahamudra)と呼びました。

彼らは、はっきりと神の世界の存在を見ました。だから彼らはその世界に彼らなりの名前をつけました。老子はそれを「道」と呼びました。旧約時代には「エホバ」と言い、イエスは「神」と言い、マホメットは「アラー」と言い、釈迦の時代には「阿弥陀」と言いました。

その当時は地域がそれぞれ異なっていたために、また彼らがアフォリアを超えて到達したものがあまりにもはっきりしていたため、他の人々が人間的な次元において信じている世界と区別するために、彼らはこう断言しました。

「私に従え、ここに光がある。そして私以外の他の偶像を崇めるな」と。それで人々はこう考えました。「私の信じている宗教こそが絶対的な世界である。他のものはどれもみな偶像にすぎないのだ」

こうして人々は争い始めました。一つの地域と他の地域が出会ったとき、彼らは喜んで抱き合ったりはしませんでした。彼らは互いに、他の地域には異なる神の世界が存在すると考えたのです。だから人間に光を与えようとしたものが、あえなくも地域間の深い溝に、東洋と西洋の間の根深い対立に置きかわってしまったのです。

これまでの歴史の中で宗教は多くの血を流し、多くの命を奪い取りました。宗教の歴史は血の歴史であり、戦争の歴史にほかなりませんでした。それで、悟った者たちは深く深く嘆いて言いました。「おお、悲しい哉、あのまばゆい光の周りに、あれほどまでに深い暗黒がつき纏わねばならぬとは!」


「悟りの瞬間」素空慈著 塩田今日子訳 地湧社

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「悟り」心即ち仏

本浄が言った。「仏を求めんとすれば心即ち仏であり、道を知ろうとすれば無心即ち道である」 「ではどうして心即ち仏なのですか」
「仏は心を悟ることでもって成され、心は仏によって現れる。もしも無心を悟るならば仏もない」

これを真に理解するためには、悟りを得なければなりません。この言葉は大変易しい言葉でありながら、同時に非常に難しい言葉であります。

湖上に月が浮かんでいます。人々は湖に映った月を見ます。流れて行く雲も見ます。湖の中に見える月は本当の月ではありません。映し出された月です。

人は顔を洗うとき、鏡を見ます。鏡に映った自分の顔を見ます。とたんに皆さんは鏡の中に埋没してしまいます。人が考える心の像は、それを映し出す鏡があるために現れるのです。皆さんは鏡の作り出す像の中に鏡の姿を見つけようとしています。鏡の中に鏡を探そうとしています。しかし鏡の中に鏡を見つけることはできません。まず、それが鏡に映った像であることを知らなければなりません。そしてそれが鏡であることに気付けば、その鏡と鏡が作り出す像とを同時に見ることができるようになります。

それをはっきり悟り、像だの鏡だのと探し回る心までも脱ぎ捨てれば、鏡だの像だのと論じる言葉と表現の世界もないのです。

皆さんは聞きます。「先生、イエス様は神のひとり子ではないのですか?」

私は答えます。「イエスは神のひとり子だったが、お前の言うようなお前のひとり子ではない。お前の考えるイエスは神のひとり子のイエスではないからだ」

皆さんも、実は神のひとり子なのです。ただ皆さん自身が気付いていないだけです。皆さんの考える仏、皆さんの語る仏は仏ではありません。それは皆さんが作り出した、皆さんによって映し出された像の仏なのです。

そうです、皆さんの語る仏は、皆さんによる、皆さんのための、皆さんの仏にすぎないのです。


「悟りの瞬間」素空慈著 塩田今日子訳 地湧社

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禅と悟り

我々の周囲には、永遠の生命を得るために、あるいは極楽に行くために、教会や寺に一生懸命通っている人がたくさんいます。人々はこう思っているのです。一生懸命寺に通ったり、教会に通って祈りさえすれば、神様の懐に抱かれて極楽に行けるのだ、と。しかし賛美歌や祈りで天国に行けるのではありません。百日祈祷をしたからといって極楽に行けるわけではありません。

その当時の中国では、坐禅は大変一般化していました。当時の中国は、仏教が最も民衆に受け入れられた宗教でもありました。ちょうど今日の韓国では教会に行って賛美歌を歌って祈るのが一般化しているように、坐禅が一般化していたのでした。彼らはこう思っていました。結跏趺坐して心を磨けば、仏になれるのだと。

・・・中略・・・

懐譲が道一に言った。「お前は坐禅を学んでいるのか、それとも座った仏を学んでいるのか。もし坐禅を学んでいるのなら坐禅は座るところにはなく、座った仏を求めているなら仏は一定の形相ではない。お前がもし座った仏になるのなら、それは仏を殺すことであり、座ることに執着するなら理に到達することはできない。止まる所のない法に対して、取ろうとか捨てようとかいう考えを起こしてはならない」

お前は坐禅を学んでいるのか、座った仏を学んでいるのか。

もし坐禅を学んでいるのなら、坐禅は座る所にはなく・・・・・禅というのは、座って、心を静めることなのではない。静かだと思われるその静けさまでも打ち壊してしまわなければ、そこからも抜け出さなければ、その境地を得ることはできないのである。

もし座った仏を求めているなら、仏は一定の形相ではない・・・・・仏はお堂の中に座っているようなモデルではない。森羅万象の世界、全宇宙を自由に駆使し、また自由に享受することのできる世界こそが仏の世界なのである。ゆえにお前が、座っている仏の真似をするならそれは仏を辱しめることであり、座ることに執着するなら理に到達することはできないのだ。


「悟りの瞬間」素空慈著 塩田今日子訳 地湧社


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般若の世界

我々が見、聞き、味わい、嗅ぎ、感覚として感じ、考えて理解することのできる範囲の限界、それをギリシャ人たちは「アフォリア」と呼びました。そのアフォリアの外の世界をどうしたら知ることができるのか、そのことに挑戦し続けてきたのでした。

東洋でも同じです。皆さんが知っている易経がそれです。アフォリアの外にある宇宙の姿が、アフォリアの世界の中でどのように現れているか。その「どのように」現れているその世界を名付けて「易」と呼んだのです。ですから人間が宇宙の法則を確率的に知ることができる世界が易なのです。その易を通じて、人間が知ることのできない未知の世界を知の世界に引き入れようとするのが易経であります。

洋の東西を問わず、昔から占いがそれぞれ発達してきました。星を見て占う占星術、生まれた日時で占う四柱推命、大地の地勢を見てその土地の気運を占う風水地理など、これらはすべての人間が知ることのできないアフォリアの外の世界を知るために生まれたものです。知ることのできない世界を、確率的にでも覆い知ろうとするのが、占いなのです。

イエスは、人間には解けないアフォリアの世界と宇宙との関係を最もうまく表現した人のひとりでした。

「天の御心がこの地に成されるように」

今、窓の外から風が吹いてきています。皆さんは今、涼しさを感じています。涼しさを感じながら、皆さんは今、外に初秋の涼風が吹いているということを同時に感じています。これが占うことであり、科学することなのです。それと同じことです。それはアフォリアの中で起こっています。

・・・(中略)・・・

易経ではアフォリアの外の世界を“道”と言い、アフォリアの中で展開するこちらの世の中を“易”と言いました。

聖書では易経で道と呼ぶものを“天の御心”と言い、西洋では人が感知でき、思考することができる世界の中で起こる現象を“悟性”、悟性の向こうで展開する易経の道の世界を“理性”と呼びました。

カントは言いました。理性は人間の悟性では知ることができない。しかし、その本体の世界を知ることはできないが、その流れを人間の側面において、把握できる範囲内において説明することはできる。それを“知恵”、すなわちソフィア(Sophia)と呼びました。

仏教では次のように言います。人が考えるアフォリアの世界に固執せずにそれを飛び越えるとき、人間はアフォリアの外の本体の世界と同じ状態になることができる。その状態からアフォリアの世界に入ってくる世界、それを“般若”と言いました。摩訶般若波羅蜜多の般若がそれです。

すべての聖者たちの教えは、みな般若です。それがおのおの異なって感じられるのは、当時の人々が知っていた世界がそれぞれ違っていたからです。その当時の知識の世界を通して説明された歴代の教えは、今日多くの教典として残されています。


「悟りの瞬間」素空慈著 塩田今日子訳 地湧社

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平常心即ち道なり

この法達とは性格が正反対の者がおりました。彼は経は全く度外視し、知識を全く遠ざけて、ただひたすら修行して悟りを開こうとしている者でした。彼は僧侶でありました。

ある日、六祖の下で悟りを開いた堀多三蔵が修行中のその僧侶に会いました。堀多が五台山をまわってどこかに修行する途中のこと、ある庵で一生懸命座り続けている者に出会います。

《堀多三蔵》
堀多三蔵がその僧侶に聞いた。
「お前は一人座って何をしているのか」「私は静寂を観察しております」
「観察するものは誰で、静寂だというのはまたどんな代物か」
その言葉を聞いた僧侶は何か胸に感じるところがあり、改めて立ち上がり礼をして聞いた。
「それはいかなる道理ですか」「お前はどうして自らの静寂を顧みて観察しないのか」
その時、僧侶は忽然と悟った。

『伝灯録』に「平常心即ち道なり」という話が何度も出てきます。
「平常心とは何でしょうか、フジョン?」「・・・・・・・・」
「ずいぶん間抜けになってしまったな」「平常心というのは、こんなふうに間が抜けていることではないのですか?」
「本当の間抜けになったな。平常心とは何だい?」「無心の境地を言います」

平常心と名付けられたもの、人が普通平常心と呼ぶものは、お腹が空けば食べ、眠たければ眠り、ガムを噛みたければ噛むというようなことだと思われています。しかし私の言う平常心は、ガムを噛んでも動かない心、ご飯を食べても一様な世界を指すのです。

人は誰でも、何をどのようにしても変わらない世界を持っています。ただ、それを自ら自覚できないでいるだけです。この平常心は、すなわち真空を言うのです。この真空の中を雲が通り過ぎようと、鳥が飛んで行こうと、神君の世界は変わりません。ただすべてのものを含むだけです。そこに鳥が飛んだとて跡を残しません。虚空はいつもそのままです。

昔、龍樹という人が、仏陀の教えを学説として体系化しました。もともと釈迦のいたころは、今日の我々が知っているような仏教哲学は学説として立てられていませんでした。そのような学説の体系を作った大変頭のいい人が龍樹です。

彼は森羅万象を、我々が感じることのできる法則の世界にまとめ、「体」「相」「用」と名付けました。すなわち、体というのは本質それ自体の世界であり、その本質が自ら動いて起こる世界を用、すなわち作用の世界、その作用によってまた元に還る世界を相と言ったのであります。


「悟りの瞬間」素空慈著 塩田今日子訳 地湧社

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悟りの道

私は毎土曜日に講義をしています。しかし、実は講義の内容それ自体が重要なのではありません。もっと大切なのは、悟りを開いた者のラティハン(latihan=生命の本質のエネルギー)です。皆さんが私の講義の内容を理解できなかったとしても、目に見えないエネルギーが皆さんを解かしつつあるのです。あたかも晴れわたった空が日の光を受けて陽気を一杯に包んでいるように。

そのように、生命のエネルギーはすべてのものを解かします。氷は日差しを浴びると解け始めます。氷自身が解けたくないと言おうが言うまいが、いやおうなしに氷は解け始めます。皆さんが解けるためには、師の暖かいエネルギーが注がれなければなりません。

この超験センターに入門すると、皆さんは儀礼上、頭を下げて礼をすることになります。なぜ頭を下げるのでしょうか。それは自ら自分が氷であることを知って、師匠の日差しの前に自分を投げ出すことなのです。

すべての弟子たちは師匠の前でこうべをたれました。悟りの道において、皆さんは自らこうべをたれなければなりません。深く深く下げなければなりません。氷から見ると、日差しは恐ろしいかもしれません。氷はさっと自分の身を日差しから遠ざけようとします。しかし皆さんはその恐れを克服して、前に進み出なければなりません。日差しの前に進み出て、このように誓うのです。「今からあなたの前に自分を投げ出します。こうして頭を下げて、あなたの光によって解けようと思います」と。

頭が人々を支配しています。あなたを支配しているのは自分の観念、思考体系、自尊心、自己原則など・・・・・すべて頭に属するものです。それは皆エゴに属するものであり、カルマに属するものです。そのような頭こそ、あなたは下げなければなりません。

・・・(中略)・・・

人だけが悟りを得ることができます。悟りを得るためには頭を下げなければなりません。それは生易しいことではありません。すべての人は頭の中に自尊心を抱えているからです。誰でも自尊心を逆なですると怒ります。自尊心が強ければ強いほど、いかりも一層増大するものです。これが最初の壁です。自尊心とはつまるところ、想念のかたまりであり、その想念のかたまりが引っぱっている引力のようなものなのです。


「悟りの瞬間」素空慈著 塩田今日子訳 地湧社

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釈迦の教え

釈迦牟尼以前の時代に、インドのすべての哲学を代表していた聖典として、ヴェーダ(veda)とウパニシャッドを挙げることができます。ウパニシャッドにはこんな言葉があります。

「自らの本性が清まった人は、その心の中に表象する世界、望む世界をすべて達成することができる。ゆえに、幸福を望む者は自我を明らかにした者を哀心より恭敬せよ・・・・・」

人々は、悟りを開いた者を中心に次第に集まり始めます。それは自然に起こる現象です。そして、その悟りを開いた者を中心に宗教が起こります。その人が望むと望まないとにかからわず、宗教が形成されるのです。

まず、それには大変表面的な理由があります。人々が悟った者を通じて、自分たちが望むことがらを要求すれば、それが実際に現れます。それで何よりもまず、人々は手に手に自分の要求を掲げて悟った者の周りに列を作るようになります。それはイエスの周りにも、釈迦の周りにも起こりました。それを求福化と言います。

しかし、もしもあなた自身がそのように本性を明らかにしたければ、自分が手にしている欲求の器を見なければなりません。そうして何の垢もついていない真我の世界を探して、我が物としなければなりません。その時、あなたには他人の要求までも聞いてやることのできる能力が備わるようになるのです。

昔、釈迦の時代に釈迦の周りで起こった出来事です。このようなことはいつでも起こり得ることです。

釈迦はこう教えました。「物への執着から抜け出さなければならない。物に囚われている自らの心を払いのけなければならない」と。それで彼の弟子たちはすべて、彼の言葉に従いました。彼らは髪を切り、裸足になり、茶わんひとつ以外何も所有しませんでした。

その当時、釈迦を尊敬する富裕な階層の人たちがたくさんおりました。彼らは、釈迦とその弟子たちに広大な土地と家を寄贈しました。釈迦は、その家を心をこめて手入れしてきれいに使えと弟子たちに言いました。

しかし弟子たちは、その言葉の意味が分かりませんでした。最初はきれいで雄大な家でしたが、日がたつにつれ、次第に古く、汚くなりました。弟子たちは考えました。「師匠は物に執着するなとおっしゃった。こんな物と私とは何の関係もない」

弟子たちは釈迦の教えに背きました。物に執着しない人は、物をないがしろにしたりしません。物に執着する人は、物に囚われます。しかし物に執着しまいとして物をないがしろにするのもまた、物に執着することなのです。方向が変わって、表面だけ反対に現れただけのことです。

釈迦が教えたのは、そのようなことではありませんでした。本当に物に対する執着のない人は、物を大切にする人なのです。彼は物に対する執着がないゆえに、その物が持っている光を引き出してやることができるのです。


「悟りの瞬間」素空慈著 塩田今日子訳 地湧社

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永遠の生を生きる悟り

皆さんの世界が、皆さんを掌握しています。皆さんは喜び、悲しみ、寂しがり、楽しみながら、皆さん自身を判断し、変形させ、後悔もしながら、皆さんの生をそれなりに楽しみながら生きています。そんな「自分」の世界は「他人」の世界とは違うと言いながら、各自独自の個性ある世界を主張しています。

あなたはそれを個性と言います。そうしてあなたは、あなたの世界が変わりつつあると考えています。三歳のときの自分、二十三歳のときの自分、四十三歳のときの自分・・・・・・あなたは無数にあります。恒河水の砂のように。あなたはその中で須弥山のような悩みを抱えています。

白紙の紙に何本か線を引いてみなさい。ちょっと長く見積もって一生の間線を引き続けてみましょう。十歳のときの線、二十歳のときの線、毎年一本ずつ引いてみましょう。一番おしまいに、最後の線を引いてみてごらんなさい。白紙はたった一枚だったのです。皆さん各自が持っている苦痛も、それを分かってくれない相手がそれなりに持っている苦痛も、苦痛は同じです。三歳の苦痛も、十二歳の苦痛も、たった一枚の紙にすぎません。

たった一枚の白紙、あなたはたった一枚の紙なのです。瞬時にそれを燃やしてしまいなさい。それは一つの塵にすぎません。一息にそれを吹き飛ばしてしまったとき、あなたは本当の意味での個性、いや、もっと正確に言うとあなたの全体性を現し、花咲かせるのです。

悟りは永遠に生きる道です。永遠に生きることは、たった一度の死です。それは永遠な死であり、完全な死であります。何回も死ぬのではなく、一度に死ななければなりません。何度も苦しむのではなく、一度の苦痛で燃やしてしまわなければなりません。

皆さんが本当に何物も残さず死んだとき、そのただ一度の死は皆さんをして永遠の生を生きさせてくれることでしょう。


「悟りの瞬間」素空慈著 塩田今日子訳 地湧社

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タントラと禅に見る悟り

釈迦牟尼は一人でしたが、彼から流れ出た教えの脈はいつくかに分化しました。その中の代表的なものがタントラ(tantra)と禅です。タントラと禅はもとは同じものですが、その様相は全く違います。

タントラは、いうなれば精神治療のような方法です。たとえば、食べたいという欲求があったとします。その欲求を抑圧すれば、そこからは多くのコンプレックスが派生します。だからタントラは、それを抑圧する代わりに解き放ってやります。

食べたいなら心ゆくまで食べよ。あらゆる注意を傾けて食べよ。そうして欲望を一つ一つ解いていきます。そうして、食べることによって自分の食べたい欲求が充足するのではないことに気付き、それを捨てるに至るのです。

・・・(中略)・・・

タントラは欲望を追求するのではありません。欲望を通して欲望を飛び越えようとするものです。しかしながら、この方法は多くの時間と経験を必要とします。ある意味では最も確固たる求道の道であることは間違いないのですが、そこには多くの時間と遍歴がなければなりません。

これに対し、中国では道家の修行方法と結合して、禅の方法を育んできました。これこそが最も熾烈な瞑想の方法です。要求の対象とは関係なく、自分の要求を自ら飛び越えるのです。

食べたい、欲しいという心、その自分の要求の世界を一つの疑問として固めて、さらに固めることによって、もうこれ以上進むことができない極限の状態に至ったとき、その要求の世界が一つであることを知り、それを一瞬のうちに打破してしまう方法です。だから禅にはある種の独特な気風があります。それは、すかっとする禅の魅力であり、力です。そして『伝灯録』こそが、その核心を記録した経典なのです。

禅は器を満たして捨てはしません。満たすことでもって捨てるのではなく、粥を食べた器を洗うのではなく、器の欲求をはっきり見極めた瞬間、その欲求を飛び越えるのです。この禅の方法を体得することが「頓悟(とんご)」です。瞬間的に悟りを得ます。見性するのです。

このにわかの悟りは、悟った後、徐々に「習気」を除去しなければなりません。その時こそ精進が必要なのであり、本当の意味での瞑想とタントラが必要なのです。それを「漸修」と言います。見性すると、自分の内面に動く欲望が何であるかがはっきり分かります。しかし欲望の習慣が欲望の影を投げ続けます。それが習気なのです。


「悟りの瞬間」素空慈著 塩田今日子訳 地湧社



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悟り「光」と「影」

むかし禅師たちは言いました。
「犬にも仏性があるでしょうか」 「ある」

影を持っている者は誰でも、その出発点は光だったからです。慧可は次のように言いました。
「花と種は地により、地によって種と花は生まれるが、種をまく者がなければ花も地も生まれない」

皆さんは誰でも皆、光を持っています。大事なことは、その光が光だと教えてくれる人、つまり聖者に出会ったとき、皆さんの胸に皆さんが気付かなかった光が蒔かれるということです。彼はみなさんが自分で悟りに向かうことができる通路を指摘し、ふさがっている部分を突いてやることで皆さんを導きます。

一人で求める人は何度も彷徨します。山をくまなく歩き回らなければなりません。本当の意味での先知者は、皆さんの道を示しています。その目に見えない通路を正しく指摘して、皆さんをして皆さんのカテゴリーを脱ぎ捨て、その世界に到達するのを助けてくれることでしょう。

皆さんはこう言います。「先生、あの人は乱暴でいつも人を踏みつけにして上に登ろうとします。あんな人でも悟れるのでしょうか?」

そんな人でもやはり悟ることができます。その人の影が堊であれバラであれ、影であることに変わりはありません。バラである私は堊のあの人よりも美しいではないかと思うかもしれません。しかし光の世界から見たときは、それが堊であってもバラであっても同じ影なのです。

それが影である限り、誰でも皆悟ることができます。影は影であると同時に常に光を持っています。ただ、それに気付かないでいるだけです。影は木があるから、万物があるから自分がいると感じるだけで、自分自身が光を持っているということが分かりません。


「悟りの瞬間」素空慈著 塩田今日子訳 地湧社

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