悩みから自由になる


皆さんはしばしば苦痛を感じます。
十歳のときにはめんこを取られてくやしい思いをし、
二十歳のときには一流大学に入れなくて悩み、
四十歳のときには手形が不渡りになって悩むかもしれません。
そこに眼識の変化はありません。大きな目で見れば、
そこには本質的な発展は存在しないのです。

皆さんのいやな思いは、七歳のときのいやな思いも
二十七歳のときのいやな思いも、四十七歳のときのも
六十七歳のときのも、全く同じいやな思いなのです。

違いがあるとすれば、対象がいくらか変化したことだけです。
めんこから手形への発展はあるかもしれないが、あなたのいやな
思いは何の変化もありません。それを克服すること、
たった一度だけそれを克服することさえできれば、
めんこからも、大学入試からも、手形からも、知っていること
からも、暴力からも、何からであっても自由でいられる力を得る
ことができるのです。

すなわち悟りというのは、皆さんがいやな思いをしたり
悩んだりする根本的な要素、皆さんの持っている皆さんの
要素から自由になることを言うのです。


「悟りの瞬間」素空慈著 塩田今日子訳 地湧社




タグ:悟り 超験
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超験とは(3)


考えは作用の世界であるので、我々は考え以前の本性を
考えでは知ることができない。

従って、考えの集中よりも、心を考え以前に
置くことによって、どんな考えも妨害することの
できない心の状態となる。

これが、即ち三昧である。

つまり、真の三昧境とは、
心をわざわざ空けて集中するのではなく、
心の作用に従って、本性に留まることを言う。

だが、この心の本性を直感によって直接知ることができず、
知識によって「空いている心」と誤って知り、
起こる心の作用を止めて、空っぽなところに留まろうとすれば、
それは即ち無知の中に溺れることであると、
六祖慧能は、戒め悟らせるために懇々と話した。


我々素空慈超験センターはもちろん、
根本的に「機」によって「体」を体得することを
基本としているが、結果的に「体」に留まることを
決してその目的とはしていない。

正しく為仰宗式に説明するとすれば、
「用」を使って無限なる創造力と生命力で
宇宙創造の業績を成すことをその目的とする。

従って、一生涯、経験によって業報を続ける生でなく、
「本質(体)」を通じて、全ての業報の障害から抜け出し、
「用」を通じて経験した「智」を展開して、
創造と達成を導く生を作っていくことをその目的とする。

そして、このように生きる生を、我々は「超験」と呼び、
超験は、経験の世界を乗り越えて、その「本体(体)」を
知り、本体の「生命力(用)」を通じて、経験の世界を
展開して、宇宙万物の創造を成すことにある。


太初に本性(体)があり、その本性から
全ての万物が創造されるために、我々はその本性を
知ることができる。

ただ、その本性は、理論的に頭脳で知るものではなく、
その実体を直接感じてこそ、真に知ることができるのである。


−素 空 慈−




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超験とは(2)


仏教禅宗である為仰宗の香厳禅師は次のように言った。

私に生まれつきの気質があり
一度にそれを知ることができた。
これを分からない者がいれば
僧と呼んではならぬな


ここで、一度にそれを知ったという「それ」は、
心の本体、即ち性品である。
生まれつきの気質とは、即ち生まれつきの直感を意味する。

このように祖師禅を通じて本体を知ることのできない人は、
僧生活をたたんでしまわねばならないという話である。

そこで為仰宗では、正しい修行を次の三つで説明した。

一つ目は、【機】
これは神聖な炎、あるいは神秘的な直感で
知ることのできる能力を指す。

二つ目は、【体】
これは機によって知った真の私、
即ち、固有の存在として本性、性品、またアートマンを言う。

三つ目は、【用】
これは悟った(見性)後、即ち、
本性を知った後に真の私(アートマン)から出てくる
行動と言葉を指す。


これまでの仏教や全ての宗教が追求してきた世界は、
まさに「真の私」を発見する道であった。

仏教では、この真の私の世界を「阿弥陀仏」と呼び、
起こる作用の現象世界よりも、それ以前の本質世界を
知ることによって、作用の世界で起こる全ての疑惑や
苦痛を解決せよと話した。

従って、この本性の世界を「中道」とも言った。
全ての作用は本性によって起こり、本性は現象世界の
根源であるため、どんな現象世界にも偏らないためには
本性に還らなければならない。

そこで、本性は全ての作用の中道であり、
心をこの中道に置くことを「三昧」と言った。


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超験とは(1)


我々の心に様々な想念や考えが絶え間なく起こるように、
宇宙もまた、その本体の中で森羅万象という様々な作用と
現象を起こしている。

仏教では、我々の心の本体を性品、あるいは当体、本性と呼び、
その本体の作用によって様々な想念と考えが起こると言う。

宇宙も同じように、形態以前の世界を「空」と呼び、
空の作用によって起こる森羅万象の世界を「色」と呼ぶ。

だが、我々の心の中で起こる全ての考えは、
顕在意識によって知ることはできても、その本体は無意識のみに
存在するだけで、考えによって感じることはできない。

仏教では、このような理論によって「あぁ!そうなんだ」と
知ることのできる「知」を如来禅と呼び、
“直感を通じてその本体が感じられること”を「見性」、
または祖師禅と呼ぶ。

我々は、祖師禅によって、その本体を知る「智」のみを認め、
如来禅は認めていない。

仏教禅宗である為仰宗の香厳禅師は次のように言った。


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真の悟りとは(8)


雲門禅師は、悟りについて次のように要約して話した。

【雲門三句】

1.天地をひっくり返して十分濡らす。


本質の世界が作用し、森羅万象が絶えず起こる。

2.全ての流れを一息に断ち切る。

悟った人は、その虚像に縛られることがなく、
本質世界にいるので、一息に虚像の世界を断ち切ることができる。

波に乗って共に流れる。

本質もまた波動であるので、本質が動くままに(慈)、
万物を創造する。


従って、悟った人が時として奇跡を起こすこともある。
だが、そうかといって、これが即ち道ではない。

一般の人々は、想念で願う目的を行使するが、
悟った人は、心の本質によって目的を行使するので、
時としてその成果が大きく現れることもある。

だが、このようなことを目指して悟ろうとすれば、
それは即ち虚像である自分のための道であるので、
得ることのできない悟りとなってしまうのである。

庭の前に松の木
山は山、水は水


のように、在るがままの中に真理があるのである。


−素空慈−



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真の悟りとは(7)


悟っていない臥輪と、悟った慧能の詩を見てみよう。

《臥輪》
臥輪は特別な技量があり
百千の思いを一息に断ち切るゆえに
どんな境遇に対しても心を動かすことがなく
心の中に菩提樹が日に日に育つ

《慧能》
慧能は特別な技量がなく
百千の思いを断つことができないゆえに
どんな境遇に対しても心を動かし
菩提樹がどうして育とうか


臥輪は特別な技量があり
百千の思いを一息に断ち切る


百千の思いを断ち切れるというのは、即ち、死にすぎない。
従って、六祖慧能は、

慧能は特別な技量がなく
百千の思いを断つことができない


と言った。そして、

どんな境遇に対しても心を動かすことがなく
心の中に菩提樹が日に日に育つ


心が動かず、当体を感じる感覚が日に日に育てば、
それもまた、煩悩ではないだろうか?

そこで慧能は、次のように言った。

どんな境遇に対しても心を動かし
菩提樹がどうして育とうか



臥輪の詩は、本質の世界に向かうものであるが、
慧能の詩は、本質の世界から出てきたものである。

結局、悟った人は、どのような想念がわき起こっても、
そこに囚われ、当体を見失わない人なのである。


雲門禅師は、悟りについて次のように要約して話した。


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真の悟りとは(6)


悟った人と、知によって知っている人の違いは、
それぞれが表現する文を見れば分かる。

知は、当体を一つの目標とみなし、一方向のみから話す。
だが、悟った人の文は、その当体が話をする。

理解しやすいように、私の詩を一つ見てみよう。

森羅万象が現れることのできるのは
永遠に変わることのない世界があるからである
永遠に変わることのない世界があるのは
絶え間なく動き、森羅万象を創るためである



森羅万象が現れることのできるのは
永遠に変わることのない世界があるからである


世の中の全ての変化は、永遠に変わることのない
その本質の世界があるためである。

永遠に変わることのない世界があるのは

ここまでは皆さんでも書くことのできる表現である。
ここで、悟っていない人たちは、大部分このように表現する。

森羅万象があり、それを守るためである

だが、悟るとまさに永遠に変わることのない世界が
話をするようになる。

絶え間なく動き、森羅万象を創るためである


では、悟っていない臥輪と、悟った慧能の詩を見てみよう。


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posted by GOLDEN KID at 10:59 | Comment(0) | TrackBack(0) | 真の悟りとは

真の悟りとは(5)


多くの人が悟りを求めても、
悟ることができないのはなぜなのだろうか?

一つ目の理由は、
自分のためにやるところにある。

我々人間が自分と感じている「自己」は、
認識された像であり、その当体ではないので、
自己のために知ろうとすれば、それがまた別の形象となるため
決して悟ることはできない。

偽りの悟りや、多くの人々が悟ることのできない
最も大きな理由は、まさにこのためである。

二つ目の理由は、
師匠がいなくても良いのだが、師匠がいるときには、
師匠と一つにならなければならない。


大きく悟る人は、知ろうとする努力を通じて
宇宙からその答えを探す。
だが、師匠がいるときには、師匠が即ち答えであるので、
師匠と一つにならなければならない。

師匠は当体を知り、当体を用いて生きている人である。
従って、師匠の前で自己を下げれば、まさに師匠の当体を
感じることができるようになる。

このとき、師匠の当体から感じられる波動の力を
昔のインド人たちは、「ラティハン」と言った。

師匠に背を向けようとする自己を下げることによって
師匠から当体を感じることができるのである。

結局、この当体は、宇宙本然の姿と同じように、
心の形象が起こることによって、
森羅万象が展開してゆくのである。

悟った人と、知によって知っている人の違いは、
それぞれが表現する文を見れば分かる。


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真の悟りとは(4)


昔、中国の洞山和尚は、次のように言った。

それを他の場所で探すな。
そうすれば、私から逃げるだけである。
今や私一人で歩いても
どこでもそれと会うだろう。
それは今、私であるが、
私は今、まさにそれではない。
これを悟ってこそ
常に「そのような私」と真に結ばれる。



それを他の場所で探すな。
そうすれば、私から逃げるだけである。


他の場所で探すようになると、結局、心の像のみが
さらに増え、当体を探すことがより難しくなる。

今や私一人で歩いても
どこでもそれと会うだろう。


心の当体は、今この文を読んでいる
その心の中にも、どこにでもあり、

それは今、私であるが、
私は今、まさにそれではない。


文を読むのを少し止めて考えてみよう。
私は誰なのか?という、その心の当体が即ち真の「それ」であるが、
そうかといって、私は今誰なのか?という
その形象が、即ち「それ」ではない。

これを悟ってこそ、
常に「そのような私」と真に結ばれる。


この点をはっきり分かってこそ、
当体を真に認識することができるのである。

では、多くの人が悟りを求めても、
悟ることができないのは、なぜなのだろうか?

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真の悟りとは(3)


真の悟りとはどのようなものなのだろうか?
もちろん、真に悟った人は、その真偽を知ることができる。

この宇宙は、我々の目に見える形体の世界もあるが、
目に見えない波動の世界もある。


そして、今日の科学は、
形体(粒子)は、即ち波動である
という事実も知っている。

従って、我々の目に見える形体を切り崩していくと、
結局、目に見えない波動となる。

だが、波動も即ち形体(粒子)であるので、
我々の心の本体は、即ち波動のような粒子である
と言うことができる。

「考え」というのは、その粒子の波動であると言えば、
理解しやすいだろう。これは、我々の心だけでなく、
宇宙もまた、同じメカニズムによって作用している。

普通、人々は、心の像が主となり、
その像を心であると感じているが、悟った人は、
心の本体を主とみなし、わき起こる現象に囚われることがない。

だが、布が心の当体であるように、布の上に縫われた山もまた、
その本体は心の当体であるので、その像を偽物とは言わない。
だが、その像に囚われないだけである。

昔、中国の洞山和尚は、次のように言った。


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真の悟りとは(2)


なぜ、それほどまでに悟りは難しいのだろうか?

それは、我々の考えや想念といったものが、
まさに心という当体の上で起こる作用だからである。


今皆さんがこの文を読んで、
「あぁ、なるほど!」と思ったのであれば、
それは考え、即ち、知であって、悟りではない。
悟りは、このように頭の中に像を描くことではない。

悟りが難しく、理にかなっていないような存在であり、
真偽を確かめにくい理由は、まさに

「認識越えの世界を、認識しなければならない」
という問題があるからである。

そして、今まで悟った多くの覚者たちは、
そのように認識することのできる能力を「直感」と呼んだ。

悟ることのできない人たちは、
悟りの世界が天上を飛んでいるようであるとか、
世の中が光って見えるとかいうように、
幻覚的な幻想によって話す。
これらはまさに、考えが作り出した錯乱現象にすぎない。

では、真の悟りとはどのようなものなのだろうか?

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posted by GOLDEN KID at 19:08 | Comment(0) | TrackBack(0) | 真の悟りとは

真の悟りとは


多くの人が悟りを、超自然的な力を用いた
奇跡的な能力であるかのように考えている。


そのような考える理由は、悟りがそれほど難しいからである。
では、なぜ悟りはそれほど難しく、また、悟りを得ることによって
一般の人たちと、どこが違ってくるのだろうか?

易しく説明するために、
我々の心の本質を、柔らかい布であるとしよう。

我々が目の前の山を眺めると、平らな布はフィルムのように、
見ている山の姿に変化する。
そして、その山の姿が、まるで心のように感じられるようになる。

このように我々の心は、見て感じる、様々な像によって
縫われることになる。そして我々は、その姿を普通、
心であると感じている。

結局、真の心の本体は、即ち布それ自体なのである。
悟りとは、心の像ではなく、心それ自体を認識することにある。

では、なぜそれほどまでに悟りは難しいのだろうか?

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大切なのはあなた自身


昔、釈迦牟尼の時代のインドでは、伝統的に
バラモン階級が最も高い階級でした。
バラモン階級の者は成長してある年齢に達すると、
一旦家を出て神の世界を追求する修行僧になりました。

当時の状況に依拠して、釈迦牟尼に付き従う者たちも、
やはりそのようなやり方を基準に据えました。
だからその当時の僧侶たちも頭を剃り、
家を出て托鉢をして暮らしたのでした。

そのような伝統が中国に渡って来ると、仙道の影響を受けて
より自然風流的な姿が加わるようになりました。
そして韓国に入って来ると、初めは大変大衆的で民衆の間でも
隆盛を極めたが、李氏朝鮮の時代に入ると仏教に対する
弾圧がひどくなり、寺院は山の中に追いやられることになりました。

その中で次のような自己を合理化しました。

「俗世的な経験は俗世的な欲望をたくさん起こさせるばかりだ。
深い山の中で独り過ごすのが関係の鎖を脱いで道に通じるのに
もっとも有利だ」

皆さんは、まずこのことについてよく理解しなければなりません。
山の中の寂莫の中で得た平安が俗世の騒々しさによって
乱されるのであれば、それは本当の平安ではありません。

もしも世の中があまりに騒々しいために山に入るのならば、
いつの日かあなたは山の中があまりにも退屈で
再び世の中に出て来ようとするに違いありません。

あなたは山の中に入りほら穴を掘って静かに座っていようが、
職場にあって一生懸命働いていようが、全く同じあなたなのです。
ただ動いている姿が異なるだけです。

私が言わんとしているのはあなたの姿ではなく、
あなた自身なのです。

あなたの持っているあなたの世界から抜け出して、
騒々しさの中でも余裕を持ち、寂莫の中でも自然にふるまう
ことができるような力を養いなさいと言っているのです。


悟りの瞬間」素空慈著 塩田今日子訳 地湧社




posted by GOLDEN KID at 11:52 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記