悟りの痛み


ここに集まった皆さん方は悟りを得ようとやってきたはずです。
そしてその状態に至ろうと努力しているはずです。
ところが、いつの間にか皆さんは依存しようとしています。
私に、あるいはこのセンターに依りかかって何かを貰おうとしています。

悟りはそんなふうにしては得られません。
悟りとは、そのようにして求めることのできるものではないからです。

皆さんがここに入門したら私に皆さんのすべてを任せよと言うのは、
皆さんの重荷を減らし、また皆さんの力を集中させてやるためです。
皆さんは、私にしがみつこうとしてはなりません。
私から何かを得て自分のものにしようとしてはなりません。

そうすれば、皆さんの荷はますます重くなるばかりです。
皆さんがあちこち引き回されて翻弄されるその心の世界を
ここに降ろして、今皆さんは皆さんのエゴの世界を
えぐって入らなければなりません。

今皆さんのしなければならないことは、
皆さん自身の世界を抜け出すことなのです。
それは生易しいことではありません。

女たちは結婚して子供を生みます。
子供を生むということは易しいことではありません。
子供を生む瞬間には、あらん限りの力を尽くさなければなりません。
死力を尽くさなければなりません。

それでこそ、そこに新しい誕生があるのです。
木が実を結ぶのも同じことです。何であれ、一つの結実が
あるためには、そのように死力を尽くすことが必要なのです。

女性が子供を生むとき、それは自分のために
生むものではありません。子供のために生むのでもありません。
誰のために生むのでもありません。
そんなことを考える暇はありません。

今、この瞬間に死力を尽くさなければならないのです。
まさにそのようにあらん限りの力を尽くさなければ、
皆さんに変化は生まれません。皆さんは必ず
そのような過程を経なければならないのです。

「悟りの瞬間」より


悟りは、依存によって得られるものではなく、
その依存心を打ち壊し、痛みに耐えながら、
そこから抜け出たときに、はじめて得られるものなのでしょう。
あたかも、痛みに耐え、新しい生命、新しい変化を生み出すように。


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タグ:悟り 生命 エゴ
posted by Only Sir at 12:22 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

無極に至る道


磁石を見れば、いつも一方の端はN極でもう一方の端はS極です。
ひとつの磁石はこのような相反する性質を同時に持っています。
もし皆さんがN極の性質が必要で、その磁石を二つに切ったとすれば、
それはまたN極とS極に分かれてしまいます。

必要なのはN極で、S極は要求しませんでした。
なのに磁石はそうなってはくれません。

さらに半分のそのまた半分の半分・・・・・・というふうに
割っていって原子の状態になるまで割り続けたとしても、
結局はその原子もやはりN極とS極からできている
ということが分かるだけです。
それは万物が成り立っている理だからです。

皆さんは片方だけを望んでいます。
喜びと幸福と愛と平和だけを望んでいます。
しかしそれは手に入れることはできません。
皆さんがもっと賢明ならば、相反する二つを同時に
理解しなければならないのです。
作用と反作用、創造と破壊を、同時に理解しなければなりません。

もし皆さんがこの相反する二つの性質を明確に理解するなら、
皆さんの住んでいる世界が巨大な想念の建築物だという
ことが分かることでしょう。

その世界でいくら巧妙にあるいは立派に生き残ったとしても、
それは実に虚しいことだということが分かるでしょう。
そしてそれは非常に危険なものだから、その場所から
抜け出さなければならないということが分かるようになるでしょう。

皆さんが生きている世界、それが外部の世界であれ、
あなたの内面の世界であれ、その世界から抜け出さなければ
ならないということがはっきり分かるようになるでしょう。

その時、皆さんは真に渇きを覚えて、
悟りを求めようとすることでしょう。

「悟りの瞬間」より



「人生山あり谷あり」といいますが、
生きていれば、楽しいことも、辛いこともあります。
そして、辛いときには、心が落ち込んでしまい、
楽しいときには、これが一生続くことを願います。

ですが、世の中はN極とS極にように
必ず二つの性質(太極)を持ち合わせており、
どちらか一方のみを選ぶことはできません。

ただ、この二つを受け入れ、抜け出すことが、
まさに「悟り」であり、無極に至る道ということができるでしょう。

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タグ:悟り 無極 太極
posted by Only Sir at 12:18 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

本当の幸福な道


《南泉と趙州》
ある日、南泉が方丈の中に入って戸に中から
鍵をかけてしまった。そして大声で叫んだ。
「誰でも正しい言葉を言えば戸を開けてやる」
すると数百名の弟子たちが一言ずつ叫んだが、
南泉は戸を開けてやらなかった。
その時、趙州が来て、「蒼天」と叫ぶと、
南泉は戸を開けてにっこり笑った。


南泉は自分の部屋に入って戸に鍵をかけました。
それは他でもない、すなわち人々のエゴの表現でありました。

今皆さんの知っている知識の世界、
これはこうだと主張する自分の主観の世界、
それはまさしく自ら戸に内側から鍵をかけて
この世界が全宇宙だと言い張っているのと同じなのです。

皆さんはその場所こそが中味のある、自分にとって利益になる、
心地よい幸福な世界なのだと思っています。
南泉はそれを表現したのです。

お前らは今このように生きている。
それは本当の幸福、本当の世界ではない。
お前らの中で誰でも本当の世界が何で本当の人生が
何かを言うことができたなら、わしが戸を開けて、
そいつを受け入れてやる。
すなわち印可してやるという意味でした。

「悟りの瞬間」より



多くの人は、知識や経験によって縛られて生きています。
ここから抜け出すことができず、鍵を閉めています。

そして、この鍵を閉めているのは、自分自身に他なりません。
まず、この事実を認める必要があります。
自分が正しいと思う世界、正しいと思う道は、
あたかも自分が作った小さな部屋の中で、
そこが全ての世界、全ての人生といっているようなものです。

素空慈先生はおっしゃいます。
「師匠がいなくても良いのだが、師匠がいるときには、
師匠と一つにならなければならない」と。

師匠と一つになるというのは、
まず、自分の愛着のある、自分がこしらえた世界を
横に置かなければなりません。
そうして、師匠の持つ世界の中に飛び込んでいくことで、
本当の幸福、本当の人生を歩み出すことができます。
これが、すなわち「悟り」です。

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タグ:悟り 禅問答
posted by Only Sir at 11:50 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

悟りの生


悟った者は、大変自由奔放です。
もしも事業に失敗したとしても、失敗するのは事業だけです。
彼はいかなる打撃も受けません。

彼の全体性は相変わらず平安さを保っています。
事業の失敗さえも、全体性の中では調和を成しています。

彼にとってはああでもいいし、こうでもいいのです。
彼は病気でもかまいません。
それが不和を起こすことはありません。
彼の体が病むだけで、その病気は全体的な調和の中で存在します。

彼が病んでいる姿は美しいものです。
あまりにも自然だからです。
また、事業の失敗や体に生じた病も
容易に回復することができます。
見えない世界から見えない力を引き出すこともできます。

自分自身を征服した者は、
誰によっても苦しめられることがありません。

「悟りの瞬間」より



人生において、病や失敗はつきものです。
そして、多くの人はこれらに心が奪われてしまいます。
また、病や失敗を前にして、
「病気になったらどうしよう」
「事業に失敗したらどうしよう」
という、不安に人はいつもかられています。

そうした意味で、悟りとは、
あらゆる障害に決して奪われない空っぽな心と言えます。

そしてさらに言えば、悟りとは、
あらゆる事柄に、影響を与えてゆける力とも言えます。

そのための生が、「超験」であります。

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タグ:悟り 超験 事業
posted by Only Sir at 16:25 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

悟りの道は


阿難は釈迦に二〇年もの間つき従っていたにもかかわらず、
釈迦が生きている間には悟ることができませんでした。
阿難は聡明で多くの人々に対して真理をうまく表現してやったりもしましたが、
彼自身が仏陀の状態になることはできなかったのです。
したがって彼の言葉には生命力が感じられませんでした。
プラスチックでした。

皆さんがいくら私の話をたくさん聞いて、
ああ、真理というのはこれこれこういうものなんだな、
と言うことができたとしても、その言葉は真理ではありません。

真理とはこれこれこういうものなんだ、
といくら立派な定義をしたとしても、その言葉は真理ではありません。
皆さんの言葉はプラスチックだからです。

皆さんが真理の世界に入ったのではなく、
皆さんの知っている知識の中に真理を埋め込んだにすぎないからです。
そこには香がありません。

皆さんの心の中に真理を入れようとすれば、
真理の世界は皆さんからますます遠ざかります。
向かおうとすればすでにはずれているのです。

「悟りの瞬間」より



コップに海水を汲んでも、それは海ではありません。
同じように、いくら頭の中に真理の言葉を詰め込んでも、
それを真理と言うことはできません。

真理とは、あなたと別に存在するものではありませんが、
人は、真理と自分とを区別する枠を自ら作っているのも事実です。

素空慈先生はおっしゃいます。
『悟りとは、自己犠牲である』と。

真理に向かおうとする思いそのものが知識にすぎず、
真理と自分とを区別する枠を自ら認識して、
それを打ち壊していくことが、自己犠牲であり、悟りの道です。

そのとき、あなたは海(真理)と一つになり、
本当の自分の姿を見出すことができるでしょう。


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タグ:真理 仏陀 悟り
posted by Only Sir at 12:41 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

【公案】コップで海を汲む


ここに一つのコップがあります。このコップで
前に見える海を汲むことができるでしょうか。

まめな人の中には、今すぐこのコップを持って出かけ、
車に乗って仁川の沖に行って海水を汲んで来る人がいるかもしれません。
勿論そうやって汲んで来た海水も海の水には違いありません。
しかしそれは海ではありません。

さあ、どうしたらよいでしょうか?

塩辛い水をコップにやっと一杯持ってきたところで、
海だと言えるわけがないではありませんか。
それを眺めて、「ああ、広々とした、茫々たる大海よ!心が開けるようだ」
とは言えないではありませんか。


皆さん、よく考えてみてください。
私が今皆さんに公案を投げたのです。

このコップで海を汲んできなさい。
来週までに答えを得た方は個人的に話をすることにしましょう。
鍵があるとすれば、クイズの問題を解くように考えを巡らせて解こうとしないで、
疑問を深く内面化して自ら答えを得るようになさい。


「悟りの瞬間」素空慈著 塩田今日子訳 地湧社



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タグ:悟り 公案
posted by Only Sir at 11:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

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