無心の中の有心


《慧蔵と西堂》
馬祖の下で学んでいた慧蔵が悟りを開いて慧蔵禅師となった。
ある日、慧蔵が西堂という人に聞いた。
「お前は虚空を掴むことができるか」
西堂が答えた。「できます」
「どうやって掴むのか」
西堂が手で虚空を探って掴む仕草をした。
「そんなことでどうして虚空を掴むことができようか」
西堂が聞いた。「ならば禅師様はどうやってお掴みになりますか」
慧蔵禅師が、「こっちへ来い。わしが今から虚空を掴む方法を教えてやる」
そう言いながら西堂の鼻をつまんでひねった。
西堂が痛さのあまり大声で叫んだ。
「あ、痛た、痛くて死にそうだ。鼻が抜けてしまう」
すると慧蔵が言った。「必ず虚空はそのように掴まねばならぬ」



慧蔵が西堂に聞きました。お前は虚空を掴むことができるか。
お前は自分のエゴの外の世界を感じることができるか。
西堂は自分の手で虚空を探りました。
彼は自分の手、すなわち有心の世界で虚空
すなわち無心の世界を掴もうとしました。

・・・中略・・・

西堂は有心の世界の中のどこかに無心があると考えたからです。
皆さんのその心、その心情、そのエゴの心でもっていくら
探してみたところで、無心の世界は掴めるはずがありません。

慧蔵禅師は西堂の鼻をつまんでひねりました。
つまりお前の心の世界、お前が掴もうとしているその手探りの世界、
それを観察し、注視し、引っこ抜いてしまえ。

あたかも鼻が抜けるが如く、それはすぱっと抜けてしまうだろう。
痛みを通って鼻から抜け出せ。鼻の存在の中に留まってはならぬ。

皆さんは、心という自分自身の世界から脱出しなければなりません。
無心の中に浸っている有心をつまみ出したとき、無心は自然に
皆さんの前に現れるのです。

それは、それほど難しいことではありません。
それは自分の鼻をぎゅっとつまむこと、牛が雑草畑に入って行ったら
すぐに手綱を引っぱって来ることと同じなのです。

道明禅師は言いました。
「速い馬なら一度のむちで理解し、利口な人なら一言で悟る」と。


「悟りの瞬間」素空慈著 塩田今日子訳 地湧社






タグ:悟り 超験
posted by GOLDEN KID at 11:27 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記
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