イエスの悟り


悔い改めることは大切です。
悔い改めるということは、カルマを燃やしてしまえ
ということなのです。
それは「霊的に新しい人間に生まれ変わる」ことを言うのです。
イエスが言ったのはそういう意味なのです。

悔い改める者は過ぎた事に囚われはしません。
過去から積み上げてきた自分のエゴを再認識するのです。
切実に認識するのです。

よって涙で悔い改める者は、
自分のエゴをそれだけ脱ぎ捨てることができます。
自分の過去の垢を、たまねぎの皮をむくように
一枚一枚はがすことができるのです。

イエスの教えた唯一の修行の方法は、
この「悔い改め」でした。
皆さんは本当の「悔い改め」を通して
新しく生まれ変わることでしょう。

本当の悔い改めは、過去のカルマを燃やしつくして
しまうことでしょう。
皆さんは新しく生まれ変わるでしょう。
そうして「風はそれがどこから吹いて来て、
またどこに吹いて行くのか知ることができないように・・・」
(ヨハネの福音書三章八節)

皆さんは無為の道を経験することでしょう。
皆さんは悟りを開くことができることでしょう。


多くの人がキリスト教には悟りがないものと信じています。
キリスト教徒ばかりでなく、仏教徒も大部分そう思っています。
しかしそれは間違いです。悟りのない宗教はにせの宗教です。
それこそ迷信であり、偶像であります。
イエスは悟りを教えて歩いたのです。

ある神学校の学生が私のところに来て言いました。
「キリスト教は悟りを追求する宗教ではありません。
信じて救いを求める救いの宗教であって、仏教のような
悟りを開く宗教ではありません」

私は聖書を開いて見せながら言いました。
「そうではない。ただ使われている用語が異なるだけである。
ここを見よ。『お前たち自らが罪を免れる権能を持っていることを
知らせるために私が来たのである』これがすなわちイエスが
表現した悟りの教えである」と。


出典:「悟りの瞬間」素空慈著 塩田今日子訳 地湧社


SHOGONGJA CHOKEN CENTER





posted by Only Sir at 12:04 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

寂莫に止まる者


「寂莫に止まる者に智慧がありますか?」
静寂を好み、静寂に埋没している者も
智慧を得ることができますか?

「寂莫におぼれて忘却したような者は智慧が沈滞し・・・」

悟りとは、常にはっきりと覚めていることです。
その覚醒は眠りの最中ですらもはっきりと覚めています。
悟れば木石のようになるのではありません。
悟れば馬鹿になるのではありません。
悟った者は左右上下を一目で見ます。
寂莫は悟りとは違います。

普通の人は自分が経験してきた方、片方にだけ向かいます。
弓でねらいをつけるときには、ねらっている方しか見ません。
そのような人は全体を見ることができません。

昔、荘子が経験したのはまさにそれでした。
荘子が弓でねらいをつけたのに、鳥は逃げようとはしませんでした。
その鳥も蝉をとろうとして、自分の的の方にすっかり
気をとられていたからです。

そのように気をとられているうちは、利口ではありません。
もし皆さんが禅定にはいれば、的にばかり気をとられる人生は
卒業することになるでしょう。
皆さんは鳥を捕らえることもでき、
鳥も蝉も捕らえないでいることもできるのです。

寂莫におぼれて忘却したような者は、
自ら馬鹿になった者です。
寂莫を求めるのは仏陀になる道ではなく、馬鹿になる道です。


「悟りの瞬間」素空慈著 塩田今日子訳 地湧社




posted by Only Sir at 14:46 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

大切なのはあなた自身


昔、釈迦牟尼の時代のインドでは、伝統的に
バラモン階級が最も高い階級でした。
バラモン階級の者は成長してある年齢に達すると、
一旦家を出て神の世界を追求する修行僧になりました。

当時の状況に依拠して、釈迦牟尼に付き従う者たちも、
やはりそのようなやり方を基準に据えました。
だからその当時の僧侶たちも頭を剃り、
家を出て托鉢をして暮らしたのでした。

そのような伝統が中国に渡って来ると、仙道の影響を受けて
より自然風流的な姿が加わるようになりました。
そして韓国に入って来ると、初めは大変大衆的で民衆の間でも
隆盛を極めたが、李氏朝鮮の時代に入ると仏教に対する
弾圧がひどくなり、寺院は山の中に追いやられることになりました。

その中で次のような自己を合理化しました。

「俗世的な経験は俗世的な欲望をたくさん起こさせるばかりだ。
深い山の中で独り過ごすのが関係の鎖を脱いで道に通じるのに
もっとも有利だ」

皆さんは、まずこのことについてよく理解しなければなりません。
山の中の寂莫の中で得た平安が俗世の騒々しさによって
乱されるのであれば、それは本当の平安ではありません。

もしも世の中があまりに騒々しいために山に入るのならば、
いつの日かあなたは山の中があまりにも退屈で
再び世の中に出て来ようとするに違いありません。

あなたは山の中に入りほら穴を掘って静かに座っていようが、
職場にあって一生懸命働いていようが、全く同じあなたなのです。
ただ動いている姿が異なるだけです。

私が言わんとしているのはあなたの姿ではなく、
あなた自身なのです。

あなたの持っているあなたの世界から抜け出して、
騒々しさの中でも余裕を持ち、寂莫の中でも自然にふるまう
ことができるような力を養いなさいと言っているのです。


悟りの瞬間」素空慈著 塩田今日子訳 地湧社




posted by Only Sir at 11:52 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

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