悟りに向かう方法


皆さんはいつもよく心得ていなくてはなりません。
もう皆さんは悟りに向かう、悟ることのできる方法までも
知っているのです。

もう自分がそのようにしさえすればいいのです。
先を行く先輩たちもこうしているのです。
ほんの一瞬に、手綱を引いて故郷に帰る日に、
皆さんの長い彷徨は終わりを告げるのです。

彼らは欲望の誘惑が自分を悩ますときには自分を失わずに
自らにむち打って、痛む心を慰めました。
ふつふつと起こる欲望を眠らせてなだめました。
愛でもってなだめました。

それは一方では非常に美しいことでもあります。
あなたが手綱を引いた瞬間、あなたはある種の強いエクスタシーを
経験することでしょう。あなたはあなたが砕け散るかのような、
あるいは胸が張り裂けるほど押し寄せてくる衝撃を
経験することでしょう。

そしてあなたの過去が、憑き物が落ちるかのように
落ちて行くのです。あなたはエネルギーそれ自体に還るのです。


「悟りの瞬間」素空慈著 塩田今日子訳 地湧社


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タグ:悟り 超験
posted by Only Sir at 17:14 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

平常心すなわち道なり


こういう言葉があります。

「無心即ち道なり」

そうです。無心はすなわち悟りであり、悟りはすなわち無心です。
しかし錯覚してはなりません。皆さん方が作り出したイメージ
としての無心は無心ではありません。
煩悩の反対が無心なのではありません。

皆さんは考えます。

「私は煩悩の中で生きてきた。この煩悩を断ち切ってしまおう。
今からは静かに座って何もしないでいよう。
今から悩むのはやめよう」と。

それは無心ではありません。
そうやって悟れるものなら誰だってできることです。
悟りはそんなに易しいことではありません。

また、こんな言葉もあります。

「平常心即ち道なり」

そうです。平常心はすなわち道です。
しかし錯覚してはなりません。

皆さんは考えます。

「そうだ。こうやって飯を食ったり眠ったりしていること、
あるがままがすなわち道である。そうなんだ。道は自分の内にある
と言ったっけ。これこそが道なんだな」

「心すなわち仏だと言うから、この思い、自分の心、それが
すなわち道なのだ」と。

それは道ではなく、煩悩であります。
皆さんがいつも思っている自分の心、「ああ、この思い、
この心情を誰が分かってくれようか・・・」
それは道ではありません。

その心情を分かってくれる人など誰もいません。
また、そのような心情を持たない人もいません。
皆さんの言う運命、辛く悲しい定め、そのような運命を
持たない人もいません。

誰だって自分の運命は辛く、悲しく、醜いものです。
誰だって自分自身の我執の世界、エゴの世界は醜いのです。

その醜い運命を抜け出すには、醜い運命だと言う自分自身の
世界から脱出しなければなりません。
皆さんの「我が心情を誰が分かってくれようか」から抜け出す
ためには、そのように言う皆さんの心情から抜け出さなければなりません。

皆さんの心情から抜け出たら、それが無心です。
その無心の世界はいつも変わらず一定に、どこにでも行き渡って
いるものであるがゆえに、それを平常心と言うのです。

今皆さんの持っている自分の心、それは平常心ではありません。
しかし重要なことは、今皆さんの持っている「自分の心」が
私の言う「平常心」の中に浸っているということです。

その浸りから抜け出すことが、すなわち悟りであります。


「悟りの瞬間」素空慈著 塩田今日子訳 地湧社


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タグ:悟り 超験 運命
posted by Only Sir at 14:29 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

無心の中の有心


《慧蔵と西堂》
馬祖の下で学んでいた慧蔵が悟りを開いて慧蔵禅師となった。
ある日、慧蔵が西堂という人に聞いた。
「お前は虚空を掴むことができるか」
西堂が答えた。「できます」
「どうやって掴むのか」
西堂が手で虚空を探って掴む仕草をした。
「そんなことでどうして虚空を掴むことができようか」
西堂が聞いた。「ならば禅師様はどうやってお掴みになりますか」
慧蔵禅師が、「こっちへ来い。わしが今から虚空を掴む方法を教えてやる」
そう言いながら西堂の鼻をつまんでひねった。
西堂が痛さのあまり大声で叫んだ。
「あ、痛た、痛くて死にそうだ。鼻が抜けてしまう」
すると慧蔵が言った。「必ず虚空はそのように掴まねばならぬ」



慧蔵が西堂に聞きました。お前は虚空を掴むことができるか。
お前は自分のエゴの外の世界を感じることができるか。
西堂は自分の手で虚空を探りました。
彼は自分の手、すなわち有心の世界で虚空
すなわち無心の世界を掴もうとしました。

・・・中略・・・

西堂は有心の世界の中のどこかに無心があると考えたからです。
皆さんのその心、その心情、そのエゴの心でもっていくら
探してみたところで、無心の世界は掴めるはずがありません。

慧蔵禅師は西堂の鼻をつまんでひねりました。
つまりお前の心の世界、お前が掴もうとしているその手探りの世界、
それを観察し、注視し、引っこ抜いてしまえ。

あたかも鼻が抜けるが如く、それはすぱっと抜けてしまうだろう。
痛みを通って鼻から抜け出せ。鼻の存在の中に留まってはならぬ。

皆さんは、心という自分自身の世界から脱出しなければなりません。
無心の中に浸っている有心をつまみ出したとき、無心は自然に
皆さんの前に現れるのです。

それは、それほど難しいことではありません。
それは自分の鼻をぎゅっとつまむこと、牛が雑草畑に入って行ったら
すぐに手綱を引っぱって来ることと同じなのです。

道明禅師は言いました。
「速い馬なら一度のむちで理解し、利口な人なら一言で悟る」と。


「悟りの瞬間」素空慈著 塩田今日子訳 地湧社


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タグ:悟り 超験
posted by Only Sir at 11:27 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

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