悟りの修行方法

大部分の宗教には修行の方法があります。たとえば、禅、ヨガ、数々の瞑想の方法や祈祷の方法などです。これらの方法について、肯定したり否定的な立場を取るのではなく、よく考え、観察してみなくてはなりません。

これらの方法は大きく二つに分けられます。一つは想念を集中し、燃やしてしまう方法であり、もう一つは想念を放心状態の中に流してしまう方法です。そうして想念の間隙に潜んでいる何かを会得しようとするものです。もちろん二つとも必要です。

しかしこれらの方法はそれなりに大きな問題をはらんでいます。方法だけが目的になり、修行方法に執着してそれらに縛られてしまうと、想念の間隙を見つけるためではなく、何かを会得しようとする方法にエネルギーが使われるようになります。そうなるとかえって、正反対の現象、エゴが消滅するのではなく、エゴが強化される現象が現れます。

ともあれ、修行方法は一つに帰するということができます。それは見つめることです。自ら内面に起こる変化を、まず一生懸命見つめなければなりません。一生懸命見つめていると、見つめていること自体までも無くなってしまいます。意識しなくなってしまいます。見つめている自分すら無い、そこになおかつ存在するものがあります。それは人間的な「自分」ではなく、神的な存在、プルシャ(purusa=神我)がくっきりと現れるのです。

今そこでしきりに頷いていますが、それは見つめることではありません。「あー、それが見つめるということだな」と理解することは、見つめることではありません。理解している自分自身をはっきり注視する何かが同時になければなりません。初めは、その注視者をすぐ逃してしまいます。寝ているときのように寝込んでしまいます。しかしそれがはっきりしてくると、寝ているときもその注視者は醒めているようになります。

「目を醒ましていなさい!」 イエスがゲッセマネ(Gethsemane)で祈祷したとき、弟子たちに命令したのはこのことです。目を醒ましていなさい、あの言葉はこういう意味なのです。


「悟りの瞬間」素空慈著 塩田今日子訳 地湧社刊

posted by GOLDEN KID at 16:10 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

悟りと空

皆さんは感情を抱きます。考えることもします。考えと感情、それらもまた人間には当然存在します。ところが、そのように当然あるべきものだと思ってしまうところに問題があるのです。歴史上のすべての聖者たちは、まさにそのことを教えようとしています。彼らは人間の思想と感情について語ったことがありません。

(手を叩く)「パン!」

明らかに手を叩く音がしました。皆さん方は、まちがいなくその音があると認めましたね。
「ある人が僕を罵りました。僕はひどく自尊心を傷つけられて、大変気分を害しました。僕もおもいきり罵ってやりたかったのですが、そうなると他の人に僕も同じように見られそうだったので、笑って済ませてしましました」

しかしこのような人の中には病気が巣食ってしまいます。一度起きた欲求は抑圧によって一旦は「中」に取り込まれますが、いつか必ず吹き出してきます。それは「中」でストレスや破壊的な行動、あるいは疾病に変わります。一度起きた欲求は必ずそれを解消しようとして、大変巧妙な方法で吹き出してきます。

そうだとすれば、どうしたらいいのですか。ある人が僕を罵ったので本当にいやな思いをしたのですが、それは間違いだったことでしょうか。こうして手を叩くと出る「パン」という音は偽物だとおっしゃるのですか。

もちろん本物です。あなたの場合、それは本物です。なぜかというと、あなたの中に「自分」があるからです。

私が言わんとすることは、過ぎていく手のひらとは関係がありません。手のひらはいつも通り過ぎていきます。過ぎていく手のひらとぶつかるあなたの手のひらを取りのけてしまいなさい。あなたの中にある「自分」というものが、その手のひらです。ぶつかるもうひとつの手のひらです。

あなたを「空」にするとき、あなたの手のひらを取り去ったとき、過ぎて行く手のひらは音を出したりはしません。「馬鹿たれ」が来ても「糞ったれ」が来ても、色々な「たれ」が一緒くたに来ても(笑い)、あなたは波だったりはしません。あなたからはむしろ愛が流れ出ます。ですからイエスが言ったように、仇は自動的に、自然に愛するようになっているのです。

「仇を愛せ!」と言ったところで、愛せるものではありません。仇すら愛せるようになるためには、いくつかの深い洞察を成し遂げなければなりません。その時、いつのまにか仇に愛を以て対している自分の姿に自ら気付くのです。


「悟りの瞬間」素空慈著 塩田今日子訳 地湧社刊




posted by GOLDEN KID at 20:10 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

悟りは苦行にあらず

慧可がある日、弟子たちを集めて言いました。

「祖師の深意は苦行にあるのではなく、道を助けることにあるのみである。もしも本心に契合し意のままにする真の光明を得たならば、苦行は土を固めて金を作るようなものであるが、苦行のみに努めて愛と憎悪に束縛されるようになれば苦行は晦日の真っ暗な晩に険しい道を行くようなものである」と。

十何年もの間結跏趺坐して座ったり、何年もの間寝ないで暮らすこと、それは悟りとは関係がありません。体があるからには寝て食べなければなりません。それは当たり前のことです。ただそこに埋没するなというのです。

釈迦も言いました。「貧トン、瞋ジン、痴チ(三種の煩悩)に落ちるな」と。この言葉はいかなる観念も利益も、さらには悟りまでも貧るなという意味です。苦行すれば悟りに埋没するからです。

そんな人々は他の求道者にも苦行を勧めます。彼に弟子があれば、弟子にも苦行を強要することでしょう。必ずそうなります。ですからそんな人の元にいる人は、次のように質問すればこう答えるでしょう。

「あなたの師匠は見性したそうですが、ならばあなたとあなたの師匠ではどこが違うのですか」
「はい、私の師匠はときどき説法をなさるのですが、我々には全くわけの分からないことをおっしゃいます。それこそが先生が見性なさったという証拠ではないのですか」

さあ、もっと深く考えてみることにしましょう。「祖師の深意は苦行にあるのではなく、道を求めるその心を助けてやろうとするだけである。自分自身の、沸き起こる心のみを追って苦行して求めるというのは詮ないことであり、自身をよく観察して本来の心を明らかにし、本当の光明を得るなら、まさにその時、そのような修行は土から忽ち金と化す。苦行だけのために耐え、努めるならば、真っ暗な夜に険しい道を行くがごとき愚かなことに他ならぬ」

皆さんも皆さんの綱と鎖から抜け出て、その綱の世界に何の拘わりもなく充足を享受して生きる本当の光明を得るようにしなさい。それこそが永遠の命であり、神の栄光であり、解脱であり、真実であります。

それを得たならば、もはや人生に彷徨うこともなく、自身が確固たる生き方をし、人間として生まれてまさに神の領域を得ることができるでしょう。それだけが人生を本当に真に享受することだということを皆さんがはっきり納得し、獲得してまさにそのような状態になること、それこそが「悟り」、すなわち「真の生」なのです。


「悟りの瞬間」素空慈著 塩田今日子訳 地湧社

posted by GOLDEN KID at 12:16 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記