地面によって転んだものは・・・

《僧伽難提と迦倻舎多》
ある日、僧伽難提はある寺の傍を歩いていた。その時、風が吹いて風鈴の音がした。僧伽難提は一人の僧侶に聞いた。「おい、この音は風によって出るのか、風鈴によって出るのか」
その僧侶の名前は迦倻舎多(カヤシャタ)であった。「風でもなく、風鈴でもありません。ただ私の心が鳴っているだけです」
「ならば鳴っているお前の心は何か」 「すべてが静かだからです」

僧伽難提にもたくさんの弟子がいましたが、釈迦から伝わってきた衣鉢を伝授するだけの器はなかなか現れませんでした。僧伽難提はすでに老年、自分の涅槃の日が近づいていることを知っていました。

風鈴の音がかすかに聞こえてきて、遠くに迦倻舎多が静かにその音に耳を傾けている姿が老僧の目に映りました。「おい、この音は風によって出る音なのか、でなければ風鈴によって出る音なのか」

本当に謎々のような問題です。このような種類の質問は、判断する者をひっかける罠のようなものです。風のせいか、はたまた風鈴のせいか。

思考の世界にいる人にとっては、このような質問は一つの解けない落とし穴になります。これだろうか、あれだろうか。どれが正解だろうか。このように頭でもって旅をする人にとっては、最後まで解けない謎のようなものです。

しかし、迦倻舎多はその罠にかかりませんでした。その問いに対し、いかなる判断にも偏りませんでした。彼は存在自体をそのまま見ていました。

風でもなく、風鈴でもありません。ただ私の心が鳴っているだけです。

僧伽難提は心の中に広がる喜びを感じることができました。
人々は争います。しかし風鈴は争いません。音を出すのが風鈴であれ風であれ、風鈴と風とは互いに争いはしません。風は通りすぎながら文句を言ったりしないし、風鈴はそれを咎めたりしません。

二つは互いに合わさって音を出すだけです。人々だけが意見を出して互いに争います。人だけが形容詞を付けます。あの音は本当にきれいだ。風鈴の音だけがして物悲しいな。あの音に我が心を乗せてあなたに送ろう・・・。


「悟りの瞬間」素空慈著 塩田今日子訳 地湧社
タグ: 悟り 釈迦
posted by Only Sir at 16:17 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

囚われた心に気づくこと

憂いも愛する術を知らなければなりません。幼な子をなだめるように、自ら憂いをなだめることのできる力を得なければなりません。その時はじめて憂いから抜け出すことができるのです。

皆さんの中にも経験した人がいるでしょう。皆さんが大学を出て社会に出る頃になると、浪人生たちが大学を何度も落ちて悩み、苦しんでいるのを見ることがあるでしょう。それは大変気の毒でもあり、見ようによっては全く取るに足らないことのようでもあります。しかし浪人生にとっては、その悩みは本当に切実です。

路地裏で一人の子供がエンエンと泣いています。その子はめんこをしていて、隣の子にめんこを全部取られてしまいました。その子はとても悔しい思いをしています。その悔しさは本当に切実です。

「ほら、そんなめんこなんか、百円もあれば買えるじゃないか。二百円あげるから、めんこを買って残ったお金で飴玉でも買って食べな・・・」

しかしその子の思いはそんなことでは満たされません。子供は二百円を投げ捨ててしまいます。そして部屋に入って布団を被って寝てしまいます。めんこを取られた悔しさ。そのために子供はそれほどまでに憤慨し、心を痛めるのです。

大事なことは何でしょうか。何枚かのめんこではなく、百円や二百円では解決されない何物か、その心、めんこに囚われている心が蒸発すること、自ら愚かであったことに気付くことなのです。めんこと悟りとは関係がありません。囚われている心と、その心に気付くこと、その間に悟りがあります。

このような小さな悟りを通して皆さんの精神は成長していくのです。対象に囚われて埋没してしまう心を自ら征服すること、自らそれに打ち勝てること、自ら不完全な世界を覚ること、それは永遠に満たされないということを知り、その世界から離れること、そうして完全を得ることです。不完全な世界の死こそが、完全な世界の始まりです。さなぎの死が蝶の始まりであるように。


「悟りの瞬間」素空慈著 塩田今日子訳 地湧社

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エゴから自由になる

この世のすべての現象的なもの―皆さんの考えることもまたそうですが―それは常に変化しています。そこには永遠など存在しません。現象的な物の中には永遠は存在しないのです。あえて永遠を探すならば、変化こそが永遠だと言えます。

つまり、すべての現象的なものは永遠に変化し、永遠に変化しない物は現象界の中にはないという意味です。永遠に変化するしかない現象界法則を指して、インドの人たちは輪廻と言いました。皆さんが感じている「自分」も現象界の一部なので、変化しています。皆さんも今、一刻一刻、変化しているのです。

人々は自ら変化しつつあるにもかかわらず、ある瞬間に幸福が訪れるとなんとかそこにとどまろうとします。変化する世界の中で、会っては別れることを繰り返しているのが現象界の原理なのに、皆さんはその出会いと別れ、創造と破壊のなかで、やるせなく切ない心をいつも持ち続けて生きています。その理由は、皆さんが「選択」をするからです。好きなものが来れば掴もうとし、いやなものが来れば避けようとするからです。

・・・中略・・・

皆さんのその心、その痛みを私も全く同じように経験してここまで来たのです。皆さんが辛いとき、隅にうずくまっている姿を見るとき、外に現れたその姿よりももっと大きい何かを私はアナハタ(anahata=チャクラ)で感じています。私は、本当は皆さんのその痛みを暖かく包んで慰めてあげたいのです。

しかし私は、むしろ怒って怒鳴ります。皆さんを慰めたりすれば、その水溜まりに座り込んでしまうからです。その世界の中でまたしても夢を見、その夢がある瞬間に組織的に適合してしまうと、皆さんは自分だけの世界をまた一つ作り出してしまうのです。あたかも一九世紀末の詩人のように、孤独で陰鬱に座り込んだままその陰鬱さを主張しはじめます。そんな孤独を楽しむようになります。

私は怒鳴って止めなければなりません。皆さんが座り込んで悩んでいるとき、私は言います。起て!不和は自ら防がなければならない。自ら防げずに他の力を借りてストレスを解消すれば、それだけ力がそげる。自らが自らを克服しつつ力を養わなければならない。

これをもっと積極的に表現すれば、「自分自身だけのための行為をするな」となります。すなわち、自分のエゴが引っ張ろうとする引力から自由になれということです。

さらに付け加えれば、「自ら自分自身をだますな」この言葉は自分のエゴを弁明するなという意味です。


「悟りの瞬間」素空慈著 塩田今日子訳 地湧社

posted by Only Sir at 12:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

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