悟りへ向かう四つの段階

悟りへと向かう道は大きく分けて四つの段階があります。第一段階は、普通大部分の人がそうであるように、自分自身の知っている心の世界に世の中を照らして見たとき、どうしてだろうか、と疑問を持つ人です。彼らは心を通して世の中を照らして見ようとします。

彼らは外部の対象に関心があり、だから新しい対象が現れれば、それはどうしてだろうかと疑問を持ち、外部の現象を観察します。それが既存の知っている世界に関連し契合すれば、それに関して「分かった」と考えます。こんな人々が尊敬する人は学者です。彼らは世の中の法則を人間の理性で分析し、還元しようとする作業を続けています。彼らの疑問符は外部に向かっています。

しかしそのような世界を極めたとき、その人はそのような方法では知に到達することができないということに気付きます。なぜなら世の中の法則というのは常に変化しており、しかも世の中の一つの部分である、人の理性もまた変化しているからです。

ここに到達した代表的な人がカントとアインシュタインでした。カントは『純粋理性批判』で「人間の理性とは、自ずから限界と相対性を包含しているために、この世界を人間の理性で定立することはできない」と述べました。この段階の終わりまで行った人が、二番目の段階に入ります。

第二段階の人は、対象の世界を把握し、定立することに関心があるのではなく、そのように「どうして」と疑問を持つ自分自身を振り返ってみる人です。彼は対象に従って作用する自分自身の作用の世界を見つめています。彼は分析し定義を与えることをするのではなく、何かを求めはじめます。

こうした人たちは求道者になるのです。彼は世の中の法則に対してああだこうだと判断を下し、自分はこう思うと発言する人々の間に交じって、そのように発言する人々の内面を見通せるようになります。彼は自分自身の内面を見通せるのと同じ深さだけ、他人の内面も見通せるようになります。彼らの疑問符は自分の内部に向かっていきます。このようになって初めて、自分自身を次第に遡っていくことを体得した人と言えます。

第三段階は、第二段階の終わりから始まります。遡る、すなわち振り返って見つめることを続けているうちに、見つめる状態そのものになることを経験します。その時その人は、このように知っているこれは「自分」ではなかったということをはっきり知るようになり、彼が抱き続けてきた疑問符が自然に消滅する現象を経験するに至ります。

たとえて言えば、水に浮かんでいる小さな木の葉が水の世界を知った瞬間、木の葉の世界を抜け出すようなものです。しかし木の葉自身はまだ持ち続けています。その中に「自分」に固執するエゴはないけれども、まだ習慣的に持ち続けてきた習気は相変わらず残っています。彼はこの木の葉が「自分」ではないということを注視しながら、相変わらずその流れに従っています。この段階に到達している人は、そのカルマの影響圏から離れます。仏教ではこの段階を見性と言います。

第四段階は、三番目の見性すなわち悟りが完成される段階です。水に浮かぶ木の葉は自分ではないということを完全に体得し、その習気の世界までも完全に消し去ったとき、彼は木の葉の影響から完全に自由になります。彼は水に浮かぶ自分と水の流れを同時に見るようになります。

この四番目の段階を仏教では漏尽通(ろじんつう)を得た、あるいは究竟覚(くきょうかく)を得たと言います。ヨガではしばしば、サハスラル・チャクラを通してクンダリーニが開いたとも言います。これは大変稀な現象なので、経典で詳しい記録を見つけるのは容易ではありません。したがって一般的には第三段階、悟りの段階までは理解するのがそれほど困難ではありませんが、この四番目の段階を理解するためには見性の後もある程度の段階を経なければなりません。

第四段階に至って初めて、彼は光の役割を果たしはじめます。彼は生命エネルギーそのものになります。生命エネルギーとは、まさに愛なのです。イエスの胸にハート型に描かれているそんな愛なのです。


「悟りの瞬間」素空慈著 塩田今日子訳 地湧社

posted by Only Sir at 12:56 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

悟り「光」と「影」

むかし禅師たちは言いました。
「犬にも仏性があるでしょうか」 「ある」

影を持っている者は誰でも、その出発点は光だったからです。慧可は次のように言いました。
「花と種は地により、地によって種と花は生まれるが、種をまく者がなければ花も地も生まれない」

皆さんは誰でも皆、光を持っています。大事なことは、その光が光だと教えてくれる人、つまり聖者に出会ったとき、皆さんの胸に皆さんが気付かなかった光が蒔かれるということです。彼はみなさんが自分で悟りに向かうことができる通路を指摘し、ふさがっている部分を突いてやることで皆さんを導きます。

一人で求める人は何度も彷徨します。山をくまなく歩き回らなければなりません。本当の意味での先知者は、皆さんの道を示しています。その目に見えない通路を正しく指摘して、皆さんをして皆さんのカテゴリーを脱ぎ捨て、その世界に到達するのを助けてくれることでしょう。

皆さんはこう言います。「先生、あの人は乱暴でいつも人を踏みつけにして上に登ろうとします。あんな人でも悟れるのでしょうか?」

そんな人でもやはり悟ることができます。その人の影が堊であれバラであれ、影であることに変わりはありません。バラである私は堊のあの人よりも美しいではないかと思うかもしれません。しかし光の世界から見たときは、それが堊であってもバラであっても同じ影なのです。

それが影である限り、誰でも皆悟ることができます。影は影であると同時に常に光を持っています。ただ、それに気付かないでいるだけです。影は木があるから、万物があるから自分がいると感じるだけで、自分自身が光を持っているということが分かりません。


「悟りの瞬間」素空慈著 塩田今日子訳 地湧社

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タントラと禅に見る悟り

釈迦牟尼は一人でしたが、彼から流れ出た教えの脈はいつくかに分化しました。その中の代表的なものがタントラ(tantra)と禅です。タントラと禅はもとは同じものですが、その様相は全く違います。

タントラは、いうなれば精神治療のような方法です。たとえば、食べたいという欲求があったとします。その欲求を抑圧すれば、そこからは多くのコンプレックスが派生します。だからタントラは、それを抑圧する代わりに解き放ってやります。

食べたいなら心ゆくまで食べよ。あらゆる注意を傾けて食べよ。そうして欲望を一つ一つ解いていきます。そうして、食べることによって自分の食べたい欲求が充足するのではないことに気付き、それを捨てるに至るのです。

・・・(中略)・・・

タントラは欲望を追求するのではありません。欲望を通して欲望を飛び越えようとするものです。しかしながら、この方法は多くの時間と経験を必要とします。ある意味では最も確固たる求道の道であることは間違いないのですが、そこには多くの時間と遍歴がなければなりません。

これに対し、中国では道家の修行方法と結合して、禅の方法を育んできました。これこそが最も熾烈な瞑想の方法です。要求の対象とは関係なく、自分の要求を自ら飛び越えるのです。

食べたい、欲しいという心、その自分の要求の世界を一つの疑問として固めて、さらに固めることによって、もうこれ以上進むことができない極限の状態に至ったとき、その要求の世界が一つであることを知り、それを一瞬のうちに打破してしまう方法です。だから禅にはある種の独特な気風があります。それは、すかっとする禅の魅力であり、力です。そして『伝灯録』こそが、その核心を記録した経典なのです。

禅は器を満たして捨てはしません。満たすことでもって捨てるのではなく、粥を食べた器を洗うのではなく、器の欲求をはっきり見極めた瞬間、その欲求を飛び越えるのです。この禅の方法を体得することが「頓悟(とんご)」です。瞬間的に悟りを得ます。見性するのです。

このにわかの悟りは、悟った後、徐々に「習気」を除去しなければなりません。その時こそ精進が必要なのであり、本当の意味での瞑想とタントラが必要なのです。それを「漸修」と言います。見性すると、自分の内面に動く欲望が何であるかがはっきり分かります。しかし欲望の習慣が欲望の影を投げ続けます。それが習気なのです。


「悟りの瞬間」素空慈著 塩田今日子訳 地湧社



posted by Only Sir at 16:45 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

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