永遠の生を生きる悟り

皆さんの世界が、皆さんを掌握しています。皆さんは喜び、悲しみ、寂しがり、楽しみながら、皆さん自身を判断し、変形させ、後悔もしながら、皆さんの生をそれなりに楽しみながら生きています。そんな「自分」の世界は「他人」の世界とは違うと言いながら、各自独自の個性ある世界を主張しています。

あなたはそれを個性と言います。そうしてあなたは、あなたの世界が変わりつつあると考えています。三歳のときの自分、二十三歳のときの自分、四十三歳のときの自分・・・・・・あなたは無数にあります。恒河水の砂のように。あなたはその中で須弥山のような悩みを抱えています。

白紙の紙に何本か線を引いてみなさい。ちょっと長く見積もって一生の間線を引き続けてみましょう。十歳のときの線、二十歳のときの線、毎年一本ずつ引いてみましょう。一番おしまいに、最後の線を引いてみてごらんなさい。白紙はたった一枚だったのです。皆さん各自が持っている苦痛も、それを分かってくれない相手がそれなりに持っている苦痛も、苦痛は同じです。三歳の苦痛も、十二歳の苦痛も、たった一枚の紙にすぎません。

たった一枚の白紙、あなたはたった一枚の紙なのです。瞬時にそれを燃やしてしまいなさい。それは一つの塵にすぎません。一息にそれを吹き飛ばしてしまったとき、あなたは本当の意味での個性、いや、もっと正確に言うとあなたの全体性を現し、花咲かせるのです。

悟りは永遠に生きる道です。永遠に生きることは、たった一度の死です。それは永遠な死であり、完全な死であります。何回も死ぬのではなく、一度に死ななければなりません。何度も苦しむのではなく、一度の苦痛で燃やしてしまわなければなりません。

皆さんが本当に何物も残さず死んだとき、そのただ一度の死は皆さんをして永遠の生を生きさせてくれることでしょう。


「悟りの瞬間」素空慈著 塩田今日子訳 地湧社

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釈迦の教え

釈迦牟尼以前の時代に、インドのすべての哲学を代表していた聖典として、ヴェーダ(veda)とウパニシャッドを挙げることができます。ウパニシャッドにはこんな言葉があります。

「自らの本性が清まった人は、その心の中に表象する世界、望む世界をすべて達成することができる。ゆえに、幸福を望む者は自我を明らかにした者を哀心より恭敬せよ・・・・・」

人々は、悟りを開いた者を中心に次第に集まり始めます。それは自然に起こる現象です。そして、その悟りを開いた者を中心に宗教が起こります。その人が望むと望まないとにかからわず、宗教が形成されるのです。

まず、それには大変表面的な理由があります。人々が悟った者を通じて、自分たちが望むことがらを要求すれば、それが実際に現れます。それで何よりもまず、人々は手に手に自分の要求を掲げて悟った者の周りに列を作るようになります。それはイエスの周りにも、釈迦の周りにも起こりました。それを求福化と言います。

しかし、もしもあなた自身がそのように本性を明らかにしたければ、自分が手にしている欲求の器を見なければなりません。そうして何の垢もついていない真我の世界を探して、我が物としなければなりません。その時、あなたには他人の要求までも聞いてやることのできる能力が備わるようになるのです。

昔、釈迦の時代に釈迦の周りで起こった出来事です。このようなことはいつでも起こり得ることです。

釈迦はこう教えました。「物への執着から抜け出さなければならない。物に囚われている自らの心を払いのけなければならない」と。それで彼の弟子たちはすべて、彼の言葉に従いました。彼らは髪を切り、裸足になり、茶わんひとつ以外何も所有しませんでした。

その当時、釈迦を尊敬する富裕な階層の人たちがたくさんおりました。彼らは、釈迦とその弟子たちに広大な土地と家を寄贈しました。釈迦は、その家を心をこめて手入れしてきれいに使えと弟子たちに言いました。

しかし弟子たちは、その言葉の意味が分かりませんでした。最初はきれいで雄大な家でしたが、日がたつにつれ、次第に古く、汚くなりました。弟子たちは考えました。「師匠は物に執着するなとおっしゃった。こんな物と私とは何の関係もない」

弟子たちは釈迦の教えに背きました。物に執着しない人は、物をないがしろにしたりしません。物に執着する人は、物に囚われます。しかし物に執着しまいとして物をないがしろにするのもまた、物に執着することなのです。方向が変わって、表面だけ反対に現れただけのことです。

釈迦が教えたのは、そのようなことではありませんでした。本当に物に対する執着のない人は、物を大切にする人なのです。彼は物に対する執着がないゆえに、その物が持っている光を引き出してやることができるのです。


「悟りの瞬間」素空慈著 塩田今日子訳 地湧社

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悟りの道

私は毎土曜日に講義をしています。しかし、実は講義の内容それ自体が重要なのではありません。もっと大切なのは、悟りを開いた者のラティハン(latihan=生命の本質のエネルギー)です。皆さんが私の講義の内容を理解できなかったとしても、目に見えないエネルギーが皆さんを解かしつつあるのです。あたかも晴れわたった空が日の光を受けて陽気を一杯に包んでいるように。

そのように、生命のエネルギーはすべてのものを解かします。氷は日差しを浴びると解け始めます。氷自身が解けたくないと言おうが言うまいが、いやおうなしに氷は解け始めます。皆さんが解けるためには、師の暖かいエネルギーが注がれなければなりません。

この超験センターに入門すると、皆さんは儀礼上、頭を下げて礼をすることになります。なぜ頭を下げるのでしょうか。それは自ら自分が氷であることを知って、師匠の日差しの前に自分を投げ出すことなのです。

すべての弟子たちは師匠の前でこうべをたれました。悟りの道において、皆さんは自らこうべをたれなければなりません。深く深く下げなければなりません。氷から見ると、日差しは恐ろしいかもしれません。氷はさっと自分の身を日差しから遠ざけようとします。しかし皆さんはその恐れを克服して、前に進み出なければなりません。日差しの前に進み出て、このように誓うのです。「今からあなたの前に自分を投げ出します。こうして頭を下げて、あなたの光によって解けようと思います」と。

頭が人々を支配しています。あなたを支配しているのは自分の観念、思考体系、自尊心、自己原則など・・・・・すべて頭に属するものです。それは皆エゴに属するものであり、カルマに属するものです。そのような頭こそ、あなたは下げなければなりません。

・・・(中略)・・・

人だけが悟りを得ることができます。悟りを得るためには頭を下げなければなりません。それは生易しいことではありません。すべての人は頭の中に自尊心を抱えているからです。誰でも自尊心を逆なですると怒ります。自尊心が強ければ強いほど、いかりも一層増大するものです。これが最初の壁です。自尊心とはつまるところ、想念のかたまりであり、その想念のかたまりが引っぱっている引力のようなものなのです。


「悟りの瞬間」素空慈著 塩田今日子訳 地湧社

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