平常心即ち道なり

この法達とは性格が正反対の者がおりました。彼は経は全く度外視し、知識を全く遠ざけて、ただひたすら修行して悟りを開こうとしている者でした。彼は僧侶でありました。

ある日、六祖の下で悟りを開いた堀多三蔵が修行中のその僧侶に会いました。堀多が五台山をまわってどこかに修行する途中のこと、ある庵で一生懸命座り続けている者に出会います。

《堀多三蔵》
堀多三蔵がその僧侶に聞いた。
「お前は一人座って何をしているのか」「私は静寂を観察しております」
「観察するものは誰で、静寂だというのはまたどんな代物か」
その言葉を聞いた僧侶は何か胸に感じるところがあり、改めて立ち上がり礼をして聞いた。
「それはいかなる道理ですか」「お前はどうして自らの静寂を顧みて観察しないのか」
その時、僧侶は忽然と悟った。

『伝灯録』に「平常心即ち道なり」という話が何度も出てきます。
「平常心とは何でしょうか、フジョン?」「・・・・・・・・」
「ずいぶん間抜けになってしまったな」「平常心というのは、こんなふうに間が抜けていることではないのですか?」
「本当の間抜けになったな。平常心とは何だい?」「無心の境地を言います」

平常心と名付けられたもの、人が普通平常心と呼ぶものは、お腹が空けば食べ、眠たければ眠り、ガムを噛みたければ噛むというようなことだと思われています。しかし私の言う平常心は、ガムを噛んでも動かない心、ご飯を食べても一様な世界を指すのです。

人は誰でも、何をどのようにしても変わらない世界を持っています。ただ、それを自ら自覚できないでいるだけです。この平常心は、すなわち真空を言うのです。この真空の中を雲が通り過ぎようと、鳥が飛んで行こうと、神君の世界は変わりません。ただすべてのものを含むだけです。そこに鳥が飛んだとて跡を残しません。虚空はいつもそのままです。

昔、龍樹という人が、仏陀の教えを学説として体系化しました。もともと釈迦のいたころは、今日の我々が知っているような仏教哲学は学説として立てられていませんでした。そのような学説の体系を作った大変頭のいい人が龍樹です。

彼は森羅万象を、我々が感じることのできる法則の世界にまとめ、「体」「相」「用」と名付けました。すなわち、体というのは本質それ自体の世界であり、その本質が自ら動いて起こる世界を用、すなわち作用の世界、その作用によってまた元に還る世界を相と言ったのであります。


「悟りの瞬間」素空慈著 塩田今日子訳 地湧社

posted by GOLDEN KID at 13:45 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

般若の世界

我々が見、聞き、味わい、嗅ぎ、感覚として感じ、考えて理解することのできる範囲の限界、それをギリシャ人たちは「アフォリア」と呼びました。そのアフォリアの外の世界をどうしたら知ることができるのか、そのことに挑戦し続けてきたのでした。

東洋でも同じです。皆さんが知っている易経がそれです。アフォリアの外にある宇宙の姿が、アフォリアの世界の中でどのように現れているか。その「どのように」現れているその世界を名付けて「易」と呼んだのです。ですから人間が宇宙の法則を確率的に知ることができる世界が易なのです。その易を通じて、人間が知ることのできない未知の世界を知の世界に引き入れようとするのが易経であります。

洋の東西を問わず、昔から占いがそれぞれ発達してきました。星を見て占う占星術、生まれた日時で占う四柱推命、大地の地勢を見てその土地の気運を占う風水地理など、これらはすべての人間が知ることのできないアフォリアの外の世界を知るために生まれたものです。知ることのできない世界を、確率的にでも覆い知ろうとするのが、占いなのです。

イエスは、人間には解けないアフォリアの世界と宇宙との関係を最もうまく表現した人のひとりでした。

「天の御心がこの地に成されるように」

今、窓の外から風が吹いてきています。皆さんは今、涼しさを感じています。涼しさを感じながら、皆さんは今、外に初秋の涼風が吹いているということを同時に感じています。これが占うことであり、科学することなのです。それと同じことです。それはアフォリアの中で起こっています。

・・・(中略)・・・

易経ではアフォリアの外の世界を“道”と言い、アフォリアの中で展開するこちらの世の中を“易”と言いました。

聖書では易経で道と呼ぶものを“天の御心”と言い、西洋では人が感知でき、思考することができる世界の中で起こる現象を“悟性”、悟性の向こうで展開する易経の道の世界を“理性”と呼びました。

カントは言いました。理性は人間の悟性では知ることができない。しかし、その本体の世界を知ることはできないが、その流れを人間の側面において、把握できる範囲内において説明することはできる。それを“知恵”、すなわちソフィア(Sophia)と呼びました。

仏教では次のように言います。人が考えるアフォリアの世界に固執せずにそれを飛び越えるとき、人間はアフォリアの外の本体の世界と同じ状態になることができる。その状態からアフォリアの世界に入ってくる世界、それを“般若”と言いました。摩訶般若波羅蜜多の般若がそれです。

すべての聖者たちの教えは、みな般若です。それがおのおの異なって感じられるのは、当時の人々が知っていた世界がそれぞれ違っていたからです。その当時の知識の世界を通して説明された歴代の教えは、今日多くの教典として残されています。


「悟りの瞬間」素空慈著 塩田今日子訳 地湧社

posted by GOLDEN KID at 14:04 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

禅と悟り

我々の周囲には、永遠の生命を得るために、あるいは極楽に行くために、教会や寺に一生懸命通っている人がたくさんいます。人々はこう思っているのです。一生懸命寺に通ったり、教会に通って祈りさえすれば、神様の懐に抱かれて極楽に行けるのだ、と。しかし賛美歌や祈りで天国に行けるのではありません。百日祈祷をしたからといって極楽に行けるわけではありません。

その当時の中国では、坐禅は大変一般化していました。当時の中国は、仏教が最も民衆に受け入れられた宗教でもありました。ちょうど今日の韓国では教会に行って賛美歌を歌って祈るのが一般化しているように、坐禅が一般化していたのでした。彼らはこう思っていました。結跏趺坐して心を磨けば、仏になれるのだと。

・・・中略・・・

懐譲が道一に言った。「お前は坐禅を学んでいるのか、それとも座った仏を学んでいるのか。もし坐禅を学んでいるのなら坐禅は座るところにはなく、座った仏を求めているなら仏は一定の形相ではない。お前がもし座った仏になるのなら、それは仏を殺すことであり、座ることに執着するなら理に到達することはできない。止まる所のない法に対して、取ろうとか捨てようとかいう考えを起こしてはならない」

お前は坐禅を学んでいるのか、座った仏を学んでいるのか。

もし坐禅を学んでいるのなら、坐禅は座る所にはなく・・・・・禅というのは、座って、心を静めることなのではない。静かだと思われるその静けさまでも打ち壊してしまわなければ、そこからも抜け出さなければ、その境地を得ることはできないのである。

もし座った仏を求めているなら、仏は一定の形相ではない・・・・・仏はお堂の中に座っているようなモデルではない。森羅万象の世界、全宇宙を自由に駆使し、また自由に享受することのできる世界こそが仏の世界なのである。ゆえにお前が、座っている仏の真似をするならそれは仏を辱しめることであり、座ることに執着するなら理に到達することはできないのだ。


「悟りの瞬間」素空慈著 塩田今日子訳 地湧社


posted by GOLDEN KID at 13:35 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記