「悟り」心即ち仏

本浄が言った。「仏を求めんとすれば心即ち仏であり、道を知ろうとすれば無心即ち道である」 「ではどうして心即ち仏なのですか」
「仏は心を悟ることでもって成され、心は仏によって現れる。もしも無心を悟るならば仏もない」

これを真に理解するためには、悟りを得なければなりません。この言葉は大変易しい言葉でありながら、同時に非常に難しい言葉であります。

湖上に月が浮かんでいます。人々は湖に映った月を見ます。流れて行く雲も見ます。湖の中に見える月は本当の月ではありません。映し出された月です。

人は顔を洗うとき、鏡を見ます。鏡に映った自分の顔を見ます。とたんに皆さんは鏡の中に埋没してしまいます。人が考える心の像は、それを映し出す鏡があるために現れるのです。皆さんは鏡の作り出す像の中に鏡の姿を見つけようとしています。鏡の中に鏡を探そうとしています。しかし鏡の中に鏡を見つけることはできません。まず、それが鏡に映った像であることを知らなければなりません。そしてそれが鏡であることに気付けば、その鏡と鏡が作り出す像とを同時に見ることができるようになります。

それをはっきり悟り、像だの鏡だのと探し回る心までも脱ぎ捨てれば、鏡だの像だのと論じる言葉と表現の世界もないのです。

皆さんは聞きます。「先生、イエス様は神のひとり子ではないのですか?」

私は答えます。「イエスは神のひとり子だったが、お前の言うようなお前のひとり子ではない。お前の考えるイエスは神のひとり子のイエスではないからだ」

皆さんも、実は神のひとり子なのです。ただ皆さん自身が気付いていないだけです。皆さんの考える仏、皆さんの語る仏は仏ではありません。それは皆さんが作り出した、皆さんによって映し出された像の仏なのです。

そうです、皆さんの語る仏は、皆さんによる、皆さんのための、皆さんの仏にすぎないのです。


「悟りの瞬間」素空慈著 塩田今日子訳 地湧社

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アフォリアを超えた悟り

人間の世界を超えたところに、神の世界があります。人間のアフォリアから抜け出して神の領域に足を踏み入れたとたん、彼は独特な体験をすることになります。それは、それまで経験したことのない、全く新しい体験であります。仏陀はそれを悟り(enlightment)と言い、クリシュナは光(luminous)と言い、エックハルトはエクスタシー(ecstasy)と言い、インドの瞑想家たちはそれをマハムードラ(mahamudra)と呼びました。

彼らは、はっきりと神の世界の存在を見ました。だから彼らはその世界に彼らなりの名前をつけました。老子はそれを「道」と呼びました。旧約時代には「エホバ」と言い、イエスは「神」と言い、マホメットは「アラー」と言い、釈迦の時代には「阿弥陀」と言いました。

その当時は地域がそれぞれ異なっていたために、また彼らがアフォリアを超えて到達したものがあまりにもはっきりしていたため、他の人々が人間的な次元において信じている世界と区別するために、彼らはこう断言しました。

「私に従え、ここに光がある。そして私以外の他の偶像を崇めるな」と。それで人々はこう考えました。「私の信じている宗教こそが絶対的な世界である。他のものはどれもみな偶像にすぎないのだ」

こうして人々は争い始めました。一つの地域と他の地域が出会ったとき、彼らは喜んで抱き合ったりはしませんでした。彼らは互いに、他の地域には異なる神の世界が存在すると考えたのです。だから人間に光を与えようとしたものが、あえなくも地域間の深い溝に、東洋と西洋の間の根深い対立に置きかわってしまったのです。

これまでの歴史の中で宗教は多くの血を流し、多くの命を奪い取りました。宗教の歴史は血の歴史であり、戦争の歴史にほかなりませんでした。それで、悟った者たちは深く深く嘆いて言いました。「おお、悲しい哉、あのまばゆい光の周りに、あれほどまでに深い暗黒がつき纏わねばならぬとは!」


「悟りの瞬間」素空慈著 塩田今日子訳 地湧社

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神の世界「素空慈」

私はつくづく考えました。これをどのように伝えたらいいのだろうか。これが神の世界だということが彼らには分からないに違いない。どうしたらよいのか。彼らにまた新たな闘争と流血の種をまくよりは、むしろ深い山にはいって隠遁生活でもしたほうがいいのか、重たい体を捨てて涅槃にはいったほうがいいのではないか。

そうしているうち、ふと新しい考えが湧き上がってくるのを感じました。そうだ、あれとこれとが異なるものだと主張して、互いに争っている人々に、そのことを知らせてやらなければならない。神の世界において、このすべての世の中はたった一つであることを知らせてやらなければならない。それこそが、この世に真の平和をもたらすことのできる道である。

それで私は、そのたった一つの世界に新しい名前をつけました。

『素・空・慈』

この世の森羅万象はそれぞれ異なる色と形態をもっており、現れる性質もまたおのおの異なる。そのように現象として現れるすべてのものを次々と分割していくと、これ以上割ることのできない素粒子の世界、一つの根本的な世界に到達する。その元素の世界、本質の世界を「素」と言う。

そしてその本質の世界は人間のアフォリアの世界においては形をもって見ることができないものであるゆえに、あたかも虚空のようなものである。ただ生命のエネルギーだけが光のように流れ出て来るにすぎない。それを「空」という。

その本質の世界は自ら惜しみなく与え、森羅万象の作用と現象を引き起こす力を持っている。磁石に+極と−極があるように、本質自体にも同様な性質があり、互いに押しあい引きあいしながら森羅万象が展開するのである。それを「慈」という。

素・空・慈――全く同じ意味を持つ三つの文字を一つに集め、再び一つの名を作りました。よって1983年1月15日、神の世界は素空慈という新たな名で呼ばれるようになり、私の名もいつのまにか素空慈になったのです。

今や、天の意志はこの地に達成されました。天の名もつけられ、本質の世界に還る道もまたついに開かれたのです。今、時代は新しい春を迎えようとしています。アフォリアの冬は過ぎ、悟りの風が吹いて万物が咲きほころぶ春がきたのです。


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