真の悟りとは(4)


昔、中国の洞山和尚は、次のように言った。

それを他の場所で探すな。
そうすれば、私から逃げるだけである。
今や私一人で歩いても
どこでもそれと会うだろう。
それは今、私であるが、
私は今、まさにそれではない。
これを悟ってこそ
常に「そのような私」と真に結ばれる。



それを他の場所で探すな。
そうすれば、私から逃げるだけである。


他の場所で探すようになると、結局、心の像のみが
さらに増え、当体を探すことがより難しくなる。

今や私一人で歩いても
どこでもそれと会うだろう。


心の当体は、今この文を読んでいる
その心の中にも、どこにでもあり、

それは今、私であるが、
私は今、まさにそれではない。


文を読むのを少し止めて考えてみよう。
私は誰なのか?という、その心の当体が即ち真の「それ」であるが、
そうかといって、私は今誰なのか?という
その形象が、即ち「それ」ではない。

これを悟ってこそ、
常に「そのような私」と真に結ばれる。


この点をはっきり分かってこそ、
当体を真に認識することができるのである。

では、多くの人が悟りを求めても、
悟ることができないのは、なぜなのだろうか?

>>次のページへ




posted by Only Sir at 10:58 | Comment(0) | TrackBack(0) | 真の悟りとは

真の悟りとは(5)


多くの人が悟りを求めても、
悟ることができないのはなぜなのだろうか?

一つ目の理由は、
自分のためにやるところにある。

我々人間が自分と感じている「自己」は、
認識された像であり、その当体ではないので、
自己のために知ろうとすれば、それがまた別の形象となるため
決して悟ることはできない。

偽りの悟りや、多くの人々が悟ることのできない
最も大きな理由は、まさにこのためである。

二つ目の理由は、
師匠がいなくても良いのだが、師匠がいるときには、
師匠と一つにならなければならない。


大きく悟る人は、知ろうとする努力を通じて
宇宙からその答えを探す。
だが、師匠がいるときには、師匠が即ち答えであるので、
師匠と一つにならなければならない。

師匠は当体を知り、当体を用いて生きている人である。
従って、師匠の前で自己を下げれば、まさに師匠の当体を
感じることができるようになる。

このとき、師匠の当体から感じられる波動の力を
昔のインド人たちは、「ラティハン」と言った。

師匠に背を向けようとする自己を下げることによって
師匠から当体を感じることができるのである。

結局、この当体は、宇宙本然の姿と同じように、
心の形象が起こることによって、
森羅万象が展開してゆくのである。

悟った人と、知によって知っている人の違いは、
それぞれが表現する文を見れば分かる。


>>次のページへ






posted by Only Sir at 15:12 | Comment(0) | TrackBack(0) | 真の悟りとは

真の悟りとは(6)


悟った人と、知によって知っている人の違いは、
それぞれが表現する文を見れば分かる。

知は、当体を一つの目標とみなし、一方向のみから話す。
だが、悟った人の文は、その当体が話をする。

理解しやすいように、私の詩を一つ見てみよう。

森羅万象が現れることのできるのは
永遠に変わることのない世界があるからである
永遠に変わることのない世界があるのは
絶え間なく動き、森羅万象を創るためである



森羅万象が現れることのできるのは
永遠に変わることのない世界があるからである


世の中の全ての変化は、永遠に変わることのない
その本質の世界があるためである。

永遠に変わることのない世界があるのは

ここまでは皆さんでも書くことのできる表現である。
ここで、悟っていない人たちは、大部分このように表現する。

森羅万象があり、それを守るためである

だが、悟るとまさに永遠に変わることのない世界が
話をするようになる。

絶え間なく動き、森羅万象を創るためである


では、悟っていない臥輪と、悟った慧能の詩を見てみよう。


>>次のページへ




posted by Only Sir at 10:59 | Comment(0) | TrackBack(0) | 真の悟りとは

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。


×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。